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第3話

 青い空と大きな山々に囲まれたのどかな住宅街と、ところどころに見える畑や田んぼが広がっている風景は先ほどと同じだが、春陽はどこか違和感を覚えた。 「なんだか変な感じ……。父さんはどこ……?」  正信の姿を探して住宅街を歩いていくと、左右に分かれている分岐点に出た。どっちに行けばいいのか迷い、道幅が広い右へ曲がる。早歩きをしながら、父の姿を探した。 「――あ、人が」  向こうから中年男性が歩いてきた。春陽の父より少し年上だろうか。見知らぬ人に声をかけるのは緊張する。春陽はぎゅっと拳を握りしめ、声を振り絞った。 「あの、すみません……! えっと、ここは狐神町ですか?」  答えの代わりに、笑い声が中年男性から返ってきた。春陽は目をぱちぱちとまたたかせる。 「おもしろいことを聞く子だ。狐神町は里人以外が使う呼び名だ。普通に西の里と呼べばいいものを。君の名前は?」 「ぼ、僕は東雲春陽、です」  名乗った途端、なぜか中年男性の顔から表情が消えた。 「もしかして父親は、東雲正信っていうんじゃないか?」 「そうです。父を知っているんですか。よかった」  安堵する春陽を見て、中年男性はちっと舌打ちした。 「……そうか、あんたが禁忌の子か」 「僕、近視の子じゃないです。目はいいんですよ」  小首を傾げる春陽を見つめ、その男の顔が歪んだ。 「まさか知らないのか。参ったな。ひとりで来たのか?」  中年男性は、九歳の春陽には強すぎる力で腕を掴んできた。わけがわからず春陽は後じさる。 「は、放してください。おじさん、酔っぱらいなの?」  男の腕を振り払おうとしたが、両肩を押さえられ、身動きが取れなくなる。ぐっと中年男性が顔を近づけた。 「おい東雲の息子、お前、ここへ誰と来たんだ? 母親はどこだ?」 「なんでそんなことを聞くの? 手を、放して!」  春陽は体を捻るようにして、男の膝を蹴りつけた。  相手が怯んだ隙に、押さえていた男の腕を振りほどき、踵を返して走り出す。 「逃がすものか! 待て、東雲のガキ」  振り返ると、般若のような恐ろしい顔で中年男性が追ってきている。  やだ、怖い。どうしよう。春陽はもう泣きたかった。追ってくる男の足は速く、俊足の春陽だが、じきに腕を掴まれてしまう。 「おい! 誰と来たんだ。母親は? 一緒じゃないのか?」 「ぼ、僕は、父さんと一緒に……母は来てないです」 「本当か? 嘘をつくとただじゃおかないぞ」  正直に答えたのに、中年男性は両手で春陽の小さな肩を突き飛ばした。 「わっ……」  勢いよく後ろに倒れ、ずさっと尻もちをつく。じわりと目に涙が浮かんだ。  でも、ここで泣いたら負けてしまうような気がして、唇を噛みしめて立ち上がる。  目の前の中年男性を睨みつけると、彼は不機嫌そうな顔で舌打ちした。 「このガキが……どうしてくれよう」  その直後、背後から声が聞こえた。 「子供相手に、何をしている!」  ぴしゃりと打ちつけるような、凛とした声だった。振り向くと、春陽より五、六歳ほど年上の少年が立っていた。中学か高校の制服だろうか、ブレザーのボタンをすべて外し、ワイシャツを第二ボタンまで開け、ネクタイを崩して、どこか不良っぽい雰囲気だ。  背筋を伸ばした彼は、子供の春陽でも驚くほど整った美しい顔立ちをしていた。 (すごくきれいなお兄さん……ドラマに出ている人みたい)  春陽は、表情を変えないまま中年男性を見据えている美少年に見惚れた。  中年男性が、たじろぎながら春陽を指さした。 「じ、仁(じん)様! この子は東雲の子です。例の禁忌の……」 「だから痛めつけていいと?」  美少年の低い声が放たれると、中年男性は顔を強張らせた。 「いいえ、そんな、ただ母親が一緒ではないかと確認を」 「もういい。あとは俺が対応する。立ち去ってくれ」  親子ほど年下の美少年の言葉に、中年男性は「わかりました」と丁寧に頭を下げ、春陽のほうをちらりと見た後、走り去った。  中年男性がいなくなってほっとしている春陽に、美貌の少年がゆっくりと近づいてきた。歩くたびにジャラジャラと金属がこすれる音が聞こえ、よく見ると、彼のベルトにゴールドチェーンが何重にも巻かれている。髪の色は金髪に近い茶色だ。  助けてくれたけれど、彼は怖い人なのかな、と春陽が躊躇している間に、美少年は春陽の全身を見つめ、静かに訊いた。 「怪我はないか? ん? その膝の怪我は?」  少年の怜悧な眼差しが、春陽の膝に注がれている。 「これは、竹林の中で転びました。さっきのおじさんは関係ないです」  少年は「そうか」とつぶやき、流れるような所作で胸元からハンカチを取り出すと、春陽の前に膝をつき、傷口をハンカチで覆った。 「ま、待って。ハンカチが血で汚れてしまうから……」 「止血する。じっとしていろ」  乱暴な口調だが、少年の手つきは優しく、膝の痛みが薄れていく。 「後でちゃんと消毒したほうがいい。他に怪我は?」 「あの……ありがとう、ございます。お兄さん」  美少年は立ち上がり、春陽を見て眉根を寄せた。 「俺は君の兄じゃない。お兄さんなんて呼ぶな。綾小路(あやのこうじ)仁だ。呼ぶなら〝仁〟と――」  格好いい人は、名前まで素敵だった。 「僕は東雲春陽です。仁兄さん」 「だから俺は兄じゃない。禁忌の子供の兄なんかじゃ……」 「え?」  言いかけて我に返った美少年――仁は、気まずそうに口元に手を当てた。 「取り乱して悪かった。春陽だったな。君も災難だった。元気で――」 「えっ、お兄……いえ、仁さん。帰っちゃうんですか? 僕、おじいちゃん家に行きたいんです。でも場所がわからなくて」  仁は目を見開いた。 「迷子になっていたのか? ここまでどうやって来た?」 「父と一緒に……でも途中ではぐれちゃって」  周囲を見回すと、住宅街の長い坂と畑が広がっている。見慣れない景色に、春陽の胸の中に再び不安が込み上げてきた。 「どうしよう、おじいちゃん家がどこか、全然わからない」 「事情はわかった。東雲家ならあっちの方角だ。俺が送ってやる。少し遠いが膝は大丈夫か?」  彼が膝にハンカチを巻いてくれたおかげで、もう痛みはほとんどない。 「平気です」 「よし、こっちだ」  仁と並んで、先ほど歩いてきた道を戻る。彼は春陽に合わせてゆっくり歩いてくれた。

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