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第5話

 彼の頬を伝う透明な涙に、春陽は息を呑む。 「あ、の……ご、ごめんなさい。僕……」  言葉が続かなかった。仁を励ますつもりだったのに泣かせてしまった。どうしよう。 「……春陽のせいではない。俺が君くらいの時、母は死んだ。もう……いない。謝ることも、できない」  見たこともないきれいな顔の彼が嗚咽を漏らし、手で乱暴に濡れた頬を拭った。 「仁さん……」  春陽から視線を逸らせ、仁はゆっくりと、恥ずかしそうに口を開く。 「情けないところを見せた。子供とはいえ、人前で泣くなど、一生の不覚だ」 「ううん。泣くことは僕もしょっちゅうあるよ。そんな時は僕、父さんか母さんに話して、背中を叩いてもらうの。元気が出るまで何度も。仁さんの背中も叩いてあげる」  無邪気な春陽の提案に、仁の頬が緩んだ。 「そうか。ならばそのいじけ虫とやらがいなくなるようにしてくれ」  仁が春陽に背を向けて片膝をつき、春陽が叩きやすいようにしゃがんだ。  痛くないように手加減しながらパン、パンと音をさせ、春陽が仁の背中を叩く。 「もっと強く叩いてくれていい」 「あ、うん……!」  力をこめて叩いていると、彼のやわらかな細い髪が日差しを反射して眩しい。どうか彼が元気になりますようにと春陽は願う。 「……ああ、本当にいじけ虫が逃げ出した後のように心が軽くなった。ありがとう、春陽。俺は――落ち込みやすい。心が脆いのだろう」  仁は立ち上がると、そんなことを言う。春陽は首を傾げた。 「そうなの? 仁さんはおじさんを叱ってくれたよ。それにすごく格好いいよ……! テレビで見る歌手とかより、ずっときれいな顔をしているもん」  言ったあとで、なんだかくすぐったいような恥ずかしい気持ちになって、春陽はおたおたとあわてた。仁は黙ったまま、春陽の頭に手を置き、くしゃくしゃと撫でた。 「もし春陽がいじけ虫にとりつかれたら、俺が背中を叩いてやる。いいか春陽。くじけそうになったら、俺に背中を叩かれていると思って元気を出せ。いじけ虫がいなくなるまで、今度は俺が叩くから」  明るい口調の彼はすっかり元気になったようで、春陽は(よかった……)と思う。 「さあ、東雲の家まで送っていく。確か三丁目だったはずだ。こっちだ」 「はい……!」  風が気持ちいい。彼と会えてよかったと弾んだ気持ちで歩いていると、畑を通り越した先に別の住宅街が見えてきた。 「――あそこだ。あの家が東雲家だよ。ほら、男の人が立っている」  仁が指さした先を見つめ、春陽はぱぁっと顔を輝かせた。 「父さんだ!」  心配していたのだろう。住宅街の中の小さな和風の家の玄関に、父が立っていた。不安げに左右をきょろきょろ見渡している。 「お父さーん!」 「……春陽!」  安堵した表情になった父が駆け寄り、春陽を強く抱きしめた。 「苦しいよ、父さん。息ができない」 「春陽、遅かったな。心配したぞ」  父の腕の中から出ると、春陽は怒った。 「父さんが勝手にすたすた歩いていくから、僕、困ったんだよ」  父の正信のお腹をぽかりと叩く。父はハハハと声を上げて笑った。 「そうか、父さんの足が長すぎて、追いついてこられなかったのか」 「何を言ってるの。本当にもうっ」  正信は運動神経はとてもいいが、身長は百七十センチで、至って普通の容姿をしている。足だって全然長くない。 「歩くの、速すぎだよ。父さんは」  春陽はため息をこぼした。もし仁に会えなかったら東雲の家へ無事に辿り着けなかったかもしれない。 「そうだ、仁さん、ありがとうございま……」  振り返った時には、強い日差しが照りつけるだけで、もう仁の姿はなかった。 「どうした、春陽。ぼうっとして。ジイさんとバアさんが待っているぞ」 「あのね、ここまで送ってくれた人に、お礼を言おうと思ったの。でもいなくて……」 「誰かが送ってきてくれたのか。そうか――父さんもお礼を言いたかったな。さあ、家の中に入りなさい」  父に背中を押され、玄関ドアを開けると、祖父母が笑顔で出迎えた。 「おぉ、春陽! 久しぶりだな。大きくなって」 「まあまあ、春陽ちゃん、いらっしゃい。喉が渇いてない? ジュース飲む? お昼は巻き寿司をたくさん作ったのよ」 「おじいちゃん、おばあちゃん……こんにちは。会いたかったです」  仁が言った通り、祖父母は優しかった。春陽を抱きしめ、可愛い、可愛いと嬉しそうに目を細めている祖父母に、思い切って訊いてみる。 「あのね、おじいちゃんとおばあちゃんは、お母さんのことが嫌いなの?」 「それは……」  祖父と祖母だけでなく、そばにいる父まで哀しそうな表情になって黙ってしまった。  春陽は自分がひどいことを言った気がして、それ以上、何も訊けなくなってしまう。  祖父母と父と春陽の四人で一緒に巻き寿司の昼食を摂り、栗蒸しようかんを手渡すと、父は「明子が待っているから、そろそろ帰る」と言い出した。 「春陽ちゃん、また狐神町へ遊びに来てね」 「はい。おじいちゃんたちも、お元気で」  祖父母と手を振って別れ、春陽は父と一緒に慌ただしく母がいるホテルへ戻った。  母は父に、しきりに祖父母の様子を訊いていたが、父は「元気だったよ」とだけ答えていた。 (仁さんにもう一度会って、ちゃんとお礼を言いたかった。また会えるかな。会いたいな)  そんな春陽の願いは、なかなか叶わなかった。両親ともに多忙になったのだ。  父の正信は商業作品のフリーデザイナーをしていたが、仕事の依頼が増え、デザイン事務所を起業した。そして少し広い中古住宅を購入したことで、料理好きな母の明子が一階に、小さなカフェ『ノエル』を開店した。  春陽は学校が休みの日はカフェを手伝ったり、母に代わって家事をしたり頑張った。 (狐神町のおじいちゃんおばあちゃん、それに仁さんも、元気かな。今度は母さんも一緒に帰省できるといいな)  春陽は窓の外の澄んだ青空を見つめ、遠く離れた瀬戸内の地へと思いを馳せた。

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