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第6話

    ****  時は静かに、そしてゆるやかに流れ……狐神町で仁と出会った日から十四年が経った。  九歳だった春陽は二十三歳になり、小柄だったが、高校に入った頃から身長が伸び始め、なんとか父と同じ百七十センチになった。  全体的に母親似で、華奢な体躯と色白で童顔のため、社会人なっても大学生や高校生に間違えられることが多々あった。  そして今日――春陽は深いため息をつき、そっと目を閉じている。 (とうとう、今日で最後か……)  大学を卒業後、私立中学校の事務職員に採用された春陽だが、わずか三か月後……仕事に慣れた梅雨入りの頃に、直属の上司である事務部長が起こした不祥事で、連帯責任をとる形で依願退職することになってしまった。  校長と向かい合い、退職願と書かれた封書を差し出す。 「……お世話になりました」 「東雲くん、本当にすまないね」  春陽は小さく首を横に振った。悪いのは自分でも目の前の校長でもなく、未成年へのわいせつ行為を行った事務部長だとわかっている。生徒や保護者からの信頼を失った事務室をこのまま継続することはできないと、学校の経営陣は判断し、新しい職員を募集して再スタートを切ることにしたのだ。 「東雲くんは、新人ながら本当によく頑張ってくれていた。こんなことになってしまって、本当に申し訳ない」  心から校長がそう思ってくれていることが伝わってきて、春陽の目の奥がじわりと熱くなる。 「本当にお世話になりました」  もう一度お辞儀をして、春陽はデスクとロッカーの荷物をすべて紙袋に詰め、私立中学校を後にした。  電車を降りると、いつの間にかぽつぽつと雨が降り出していて、両手に荷物を持ったまま、急ぎ足で家に向かう。 「明日からは、通勤しないんだ」  つぶやくと、どっと寂寞の想いが込み上げ、就職してからの記憶が一気に胸に去来した。  初めて自分のデスクに座った時の誇らしい気持ちや、憧れていた学校事務の仕事を一通り教えてもらったこと。職員室の教師たちと親しくなれたし、廊下で生徒と話をした。今から思えば、本当に幸せな時間を過ごせたと思う。 (ずっと働けると思っていた。でも、もうあの中学校に行くことはない……)  止まりかける足に力を入れながら、細い糸のような雨に打たれ、通りを歩いていく。 (父さんと母さんになんて言おう……)  二人とも春陽の就職を喜んでくれたのに、たった三か月で退職することになるなんて。両親にはまだ上司の不祥事のことを話していない。  驚き、落胆する両親の顔を想像すると、ふいに視界が滲んだ。不覚にも涙が零れそうになり、ぐっと紙袋を持つ手に力を込める。 「元気を出さないと。元気……、う、うぅ……」  自分を叱咤しようとしても駄目だった。頬を雨とともに涙が伝い落ちていく。 「こんな、時は、美味しいものを食べて……、それから、いじけ虫を……追い出して……」  雨に打たれて、とぼとぼ歩いていた春陽は足を止めた。しょぼくれた背中を叩いて、互いに顔を見合わせた人を思い出す。  ――君がいじけ虫にとりつかれたら、俺が背中を叩いてやる。くじけそうになったら、俺に背中を叩かれていると思って元気を出してくれ。今度は俺がいじけ虫がいなくなるまで、叩くから。  そう言って優しく笑ってくれたのは、春陽より五歳ほど年上の美しい少年だった。  また会いに行きたかったが、フリーデザイナーの父の起業と、料理好きな母のカフェ開店で、休みが取りにくくなったことと、祖父母がまだ母を嫌っていることもあり、狐神町への帰省は叶わなかった。  十四年も経って名前は忘れてしまったけれど、春陽を祖父母の家まで送ってくれた美少年のことは、今もずっと胸の奥に残っている。 「そうだ。落ち込んでいても状態がよくなるわけじゃない」  小さくつぶやいた春陽は、自分の背中を叩く代わりに、トンと心臓の上の辺りを服の上から叩き、言い聞かせる。 「いじけ虫に負けるな……! 無職でも元気を出せ……!」  そのまま背中を伸ばして歩いていく。静かに雨と涙が頬を濡らし、春陽は立ち止まって荷物を持ち直すと、唇を噛みしめて家まで歩いた。  その夜、春陽は両親に退職したことを話した。  驚いたことに、二人は学校の不祥事を知っていた。春陽のことを心配し、黙って見守ってくれていたのだ。 「春陽はまだ二十三歳だ。やりたいことにチャレンジすればいい」  父の正信の言葉に、母の明子も深く頷く。 「そうよ、母さんたち、応援するからね」 「ありがとう、僕はできれば学校事務の仕事がしたい。頑張って探すから」  春陽はハローワークに通って仕事を探したが、時期が悪くなかなか仕事が決まらなかった。焦る気持ちを抑え、母の明子がひとりで切り盛りしている小さなカフェを手伝いながら職を探す生活が続いたある日、父の正信が声をかけてきた。 「春陽、再就職はどうだ?」 「なかなか求人がなくて。学校事務の仕事は年度替わりにならないと無理みたい」  違う職種でもいいから採用試験を受けたほうがいいのかもしれない、と付け加えると、正信は小さく首を横に振った。 「学校事務の仕事がしたいなら、頑張って探したほうがいい。ちょうど父さんの実家がある狐神町で学校事務を募集しているらしいから、受けてみるか?」 「えっ、本当?」  できることなら再び学校事務職員として勤務したい。諦めかけていた春陽は顔を輝かせた。 「春陽が学校事務の仕事を探していると相談したら、ちょうど狐神学園という、狐神町の小中学校一貫校で、実務経験がある事務職員を募集していると、ジイさんとバアさんが連絡をくれた。春陽に知らせてくれって」 「おじいちゃんとおばあちゃんが?」 「そうだよ。狐神学園に勤めていた女性事務職員のひとりが結婚し、今年度いっぱい仕事を続けるつもりだったが、妊娠して悪阻が重く、今月末での退職を希望しているそうだ。狐神学園は父さんの母校だし、春陽が採用になって、狐神町で暮らしてくれたら嬉しいと、ジイさんとバアさんが言ってるんだよ」  祖父母に会ったのは九歳の時以来で、なつかしさが込み上げてくる。 「まあ、よかったわね、春陽。おじいちゃんたちがいる田舎なら安心だわ」  よかったと言いながら、母の明子の表情はどこか寂しそうだ。 「母さん……」  明子は季節が変わるたびに、和菓子を作って送ったり、歩み寄りを見せているが、東雲家から連絡はない。一方、春陽が手紙や写真を送ると、ちゃんと返事がくるのだ。  祖父母はまだ母を許していないのだと思うと、春陽は狐神学園の採用試験を受けることに躊躇する。正信が首を竦め、明子の背中を優しく叩いた。 「まあ、いろいろあるんだ。そりが合わないことは考えても仕方がない。明子、いじけ虫に負けたら駄目だよ」 「あなた……そうね。春陽のことは可愛がってくれているし、正信さんがこのままでいいと言うのなら、それでいいかもしれないわね」  明子は半ば諦めているようで、苦笑している。  いろいろあるのだろう。嫁と姑は、仲が悪くて離れているほうがいいという話も聞いたことがある。 「春陽、狐神学園の事務職員の採用試験を受けてみるか?」 「うん……! 受けたい。合格できたら狐神町に住むことになると思うけど、本当にいいの?」  両親は「もちろん。春陽がしたい仕事をするのが一番嬉しい」と答えてくれた。  履歴書を送ると、記載したメールアドレスに狐神学園から採用試験の日時が送信され、祖父母からバス停から家までの地図が郵送されてきた。

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