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序章2-1

 三月某日、都心の空は雲一つなく、爽やかな青が広がっている。新緑の香りを緩やかな風が運び、何とも過ごしやすい、晴天の日である。  杉下学園長の急逝の報せは、すぐに学園内に広がることとなった。  杉下は生徒達と距離が近い人間であったこともあり、このまま学園長が不在の状態でいるのは生徒達の健やかな成長の妨げになると、学園はすぐに代理の人間を立てた。  ──そこまでが、表向きに公表されている情報だ。  支配人、もとい神嶽は、依頼先である明皇学園の立派な正門の前に立つと、無言で校舎を眺めていた。  上下を品の良いダークスーツに包み、髪を短く整え、黒のハーフフレームの眼鏡を掛け、いかにも出来る男といった雰囲気を纏い──それは前学園長・杉下に代わる、善良な学園長としての姿だった。  今の神嶽に地下クラブで支配人を務める男の面影はない。血も涙もなかった表情は柔らかな笑みを湛え、それだけで別人のように見えるほどである。  外見だけではない。彼は内面まで、神嶽修介という一人の教師に化けていた。  卒業式を週末に控えた現在、放課後の学園はどことなく寂しげな空気に包まれている。それもこの時期だけの貴重なものだ。  卒業生や在校生、教員達も、春になればまた新たな出会いに心を踊らせることになる。杉下の存在も、遅かれ早かれそうして皆の記憶から薄れていくのだ。  神嶽が校舎内に足を踏み入れると、階段を降りてきた一人の男子生徒と目が合った。ちょうど下校するところだったようだが、彼は自ら神嶽に近寄り、声を掛けてきた。 「どうしました? 何かお困りでしょうか」  銀縁の眼鏡が似合っている、生真面目そうな彼。  一目で、同年代の少年とは比べものにならないほどの気品や頭脳を持っているのだとわかるような、優雅な立ち姿。肌も色白で、頼り甲斐のありそうな、きりりとした顔立ち。  たいそうな美形の男子生徒であった。 「すみません、私、西條理事長に御用があって参ったのですが……」 「理事長に? と言うことは、あなたが新しい学園長先生なのですね。確かお名前は……神嶽修介さん」 「そう言う君は……」  どんな些細な情報でも、神嶽は一度見聞きしたものは忘れない男だ。 「ああ、如月(きさらぎ)グループの(つかさ)お坊ちゃまだね」  神嶽は古い記憶を取り出したかのように、大袈裟に声を張り上げて言った。如月家については、過去の仕事でも調べたことがあったのである。  如月グループは、著名な偉人の血を引くとされる、歴史ある資産家一族だ。  現在は、それまで当主を務めていたグループ会長の他界に伴い、会長の長男である如月肇が当主を務めている。司はその一人息子だ。  巨大企業の将来を担う司は、生まれ育った環境のせいか、まだ若いながらも威厳さえ感じられた。 「私のこともご存知でしたか」 「もちろんだ。いやはや、事情を知っている生徒さんと出会えて助かったよ。ちょうど今、理事長室へ向かおうとしていたところなんだ」 「理事長室ですか。私で宜しければ、ご案内致しますが」  初対面相手だというのに、司は臆することもなく、実に紳士的だった。  普段から大人と、それも社会的立場の高い者と接触することに慣れている証拠である。社交性についても問題ない、良識ある生徒のようだ。 「それはありがたい。是非お願いするよ」  神嶽は司の申し出に笑みを浮かべながら、精神を集中させた。彼の“心を読む”ためだ。  心を読むという異能力は、無意識の内に思っている人間の深層心理を言語化して感じ取ることができる力である。  読心の条件は、対象が一定の範囲内に居さえすれば良い。遠すぎてもいけないが、神嶽の精神力を持ってすれば、明皇学園の敷地程度ならば実質そこにいる全ての人物の心を読むことができる。  しかしそれでは膨大な量の心の声がだだ漏れてきてしまう為、精神を集中させる必要があった。それは読心の際のスイッチのようなもので、その切り替えによって特定の人間のみを読んだり、普通の人間と同様、全く読めない状態になることが可能だ。  とはいえ、電話や写真、映像などの機械を通し、かつ範囲外にいる者については読むことはできない。また、思考の発達していない幼児や、常に閉鎖的な者を読もうとした際には、精度は格段に下がる。他にも、相手の感情や記憶への同調、干渉などは不可能だった。  能力は制限の方が多かったが、それでも神嶽には全く支障はなかった。この能力と共に生きることが、神嶽にとっての日常なのだから。  神嶽は、普通の人間には存在しない、独自の感覚機能から司の心の声を読み取った。 (理事長のお墨付きと言うからどんな人間かと思えば、なんて若い男だ……。本当に学園長が務まるのか疑問だが……所詮は部外者だ、実際に手腕を見てみないことには判断はできないな)  教師でさえ学園出身者などの身内同士で固められている学園では、部外者が来ること自体珍しい。  新たな学園長の人物像を妄想して楽しむ無能な生徒などとは違い、人事を心配する司はやはり頭が良く、慎重な人間だとわかる。  汚れと挫折など知るよしもない、名家の子息。  ただ犯して屈服させる以前に、そのようなエリートの転落劇自体を楽しむ人間は大勢いる。彼のような人間は、クラブにとって実に手頃で、魅力的な人材であることは間違いない。  神嶽は獲物を定めるように、眼鏡の奥の瞳を僅かに細めた。

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