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序章3-3

 昼休みが終わり、午後の授業も終盤へとさしかかった。  神嶽は職員室に寄ると、教員達に簡単な挨拶をし、来客用のソファーに座って職員室を見渡していた。  ほとんどの教員が授業に出てしまっているため、キーボードを弾く音やコピー機の動作する音など、生活音の一つ一つが大きく感じるほどに静かな室内。  そんな中、扉が開き、ちょうど授業を終えたらしいジャージ姿の男性教員が戻って来た。 「あれっ、学園長先生?」  男性教員は神嶽を見るなり垂れた目を輝かせ、優しげに笑った。教員については、神嶽は既に全員分の履歴書に目を通していた。  木村勝(きむらまさる)。歳は二十七。この学園では一年ほど勤務している、体育教師である。  更に元甲子園球児で、彼は学生時代の一時期、期待の選手として世間の注目を浴びていたこともある。  見るからにスポーツマンといった顔立ちと雰囲気をした勝は、根っから明皇学園に従事する価値観の凝り固まった教師達とは違い、人懐っこい笑顔の似合う庶民的な男だった。 「木村先生。お疲れ様です。お邪魔していますよ」 「いえいえ。ゆっくりしていってください。……おっとそうです、今日もお茶でよろしいですか?」 「ええ、お願いします」  神嶽が学園長に就任してからというもの、職員室に寄った際は勝に茶を出してもらうことが日課となっていた。勝がいない時などは用務員や若い女性教員が出すこともあったのだが、前学園長の杉下の時も勝が担当のようなもので、そのまま癖が抜けないらしかった。  神嶽に茶を出してからデスクに戻った勝は、授業で使った教材を片付け、ふと目についたクリアファイルから一枚のプリントを取り出した。 『いじめはなぜなくならないのか 多様化する子供達の環境』  と、題されたそれ。  学校内でのいじめは昔から問題視されてきたものだが、近頃またとある中学校の学生がクラスメイトに嫌がらせを受けて自殺した事件が報道各社で取り上げられていたのである。  その嫌がらせというのが学生が考えることとは思えない卑劣な行為ばかりだったことや、加害者生徒の親が地元の権力者であることが、事件を世間に広めるきっかけとなっていた。  そこで明皇学園では、著名な臨床心理士や自身もいじめられた経験を持つ芸能人などを呼んで生徒と共にこの問題を考える特別授業を予定していた。 「いじめねぇ……」  勝がプリントを見つめながら、訝しげに呟く。 「なにか、心当たりでも?」 「いえまさか。うちの学園の生徒はみんな幼なじみで仲が良いから、ありえないなって思って。だいたい、こんなの教師がいつも生徒の生活態度を見てればわかる話じゃないですか。なのに気付かないとか、ましてや見て見ぬふりをする奴なんて、本当に許せませんよ」  そう熱心に語る勝は、はたから見れば生徒想いの心優しい教師そのものだ。  だが、一つだけ、勝には不審な点があった。 (学──に……──れば──俺の……上が──)  この木村勝という男。見た目は人の良さそうな顔をしているくせに、心の声が途切れ途切れにしか聞こえないのだ。正確には、ノイズがかった声といったところだろうか。  こういう人間には、神嶽でも比較的よく出会うことがあった。  主に、心に深い傷を負い、外部との接触をシャットアウトしてしまっている者。または、他人には口が裂けても言えないような、後ろめたいことがある者がそうなのである。  少し面倒ではあったが、この手の人間は一度心を開きさえすればあとは神嶽の思うがままだ。  それには思わず白状してしまうほどに信頼させるか、自尊心を傷付け無理やり感情を高ぶらせるか、そもそもそうなってしまった原因に関係するものをぶつけるか。方法は何だって良かった。  神嶽にとって最も大切なことは、勝に商品価値があるか否かだ。勝の裏の顔を探るため、神嶽は勝を密かに観察していた。 「し、失礼します」  控えめなノックと声がして、小柄な男子生徒が職員室に入ってきた。  真っ先に勝のデスクに駆け寄ると、ボールペンを手渡す。それは勝が授業終わりに落としたもので、彼は体育倉庫の片付け後に校庭に落ちていたのに気付いて届けに来たのだという。 「あっ……学園長、先生……」 「やあ、こんにちは」  目が合って神嶽が微笑むと、彼は小さく会釈する。人見知りらしい。 「そうそう、学園長先生! こいつ、野球部で二年の菅沼って言うんですけど、こんな風にものすごく良い奴なんですよ!」  勝はなにか思い付いたようで、神嶽に見せつけるように菅沼の肩を抱く。  勝は体育教師と野球部出身という立場上、野球部の顧問でもあった。クラスを担当していないだけに、部活動で生徒との距離を縮めているとアピールしたいのだろう。 「本当は身体も弱いのに、高等科ではそういう自分を変えたい! って思いで、入部してくれたんですって」 「ほう、なるほど。菅沼くんはとても素晴らしい志を持った子なんだね」 「そうなんですよ! キツい練習も楽しいって言うんですけど、やっぱりまだ頑張りすぎて体調崩すこともあって。だから俺、こいつのこといつも気にかけてるんです。なっ?」 「えっ……は、はい。木村先生には……いつも、お世話になっています……」  誰がどう見ても勝に無理やり言わされているとわかる菅沼の態度。もし二人が真の信頼関係を築けているのなら、次に菅沼が冗談めかして笑いでもするだろう。  しかし、菅沼の心は全く異なっていた。  神嶽には聞こえている。彼の嵐のような爆音が。それは、紛れも無い、菅沼の心からの叫び。 (部活なんか楽しくない……! 木村先生は僕の話なんて何も聞いてくれないし……みんなも……学園も……なにも信じられない……!)  菅沼の声は極めて大きな負のエネルギーで形成されていた。力加減の効かない声は容赦なく神嶽の感覚機能に響く。  何も聞こえない勝は、「そんなに言われたら照れんじゃねえか」と、楽しそうに笑いながら菅沼の肩を揺すぶっている。  やはり勝の裏の顔というのは、よほど人に知られたくないものらしい。  そう、本当にただの人の良い熱血教師ならば、そこまで本音を隠す必要もない。むしろこの菅沼のように全てを曝け出す方が正解なのだから。  人間は外見だけではわからないことがたくさんある。だからこそ神嶽のこの能力は非常に役に立つ。 (木村先生……そういえば、去年は杉下先生の前でもこうやって……学園長先生に良い評価をしてもらいたい……とか……?)  あくまで菅沼の予想だったが、勝の胡麻をするような態度からしてそれは本当だろう。残念ながら神嶽には機嫌取りなど何の意味もないのだが。  それにしても司や理事長だけでなく、勝にまで舐められているとは、杉下はとことん人望のない男だったようだ。なにも理事長が依頼せずとも、いつかは何らかの不祥事を起こし自滅していたかもしれない。そうなってからでは学園の名に傷が付くことになりかねない為、理事長の判断は賢明だったとも言える。 「あ、授業始まっちゃう……し、失礼します」 「おう、じゃあまた部活でな!」  予鈴を聞いてぺこりと頭を下げ職員室を出ていく菅沼に、満面の笑みで手を振る勝。  少し気が抜けたのか、思わず漏れる吐息。その一瞬を神嶽は逃さず、読心してみせる。 (あはっ……困ってた困ってた……あんな部が楽しい訳ねえもんなぁ? でも、反抗できないお前だって悪いんだぜ……)  神嶽に流れ込んでくる勝の声は、目の前の温和そうな男とは正反対に、どす黒く、重苦しいものだった。 (ああ、今日も野球部の連中を煽ってやるからな……楽しみだぜ……)  油断した勝の心からは、決定的な言葉が放たれた。普段から野球部では、菅沼が恐れる出来事が起こっているということなのだろう。  明皇学園がいくら幼稚園からの一貫校で普通よりは生徒間の距離が近いとはいえ、果たしていじめもないと断言できるだろうか。  野球部にいじめが存在していて、勝もそのことを知っている、それどころか扇動している張本人なのだとすれば、それは彼の心をこじ開け支配する最大の鍵となる。 「では、私もそろそろ巡回に行って来ますね。木村先生、今日もあなたが淹れてくださったお茶、美味しかったですよ」 「うわ、嬉しいです。俺で良かったら、いつでも使ってやってくださいね」  どんと拳で胸を叩く勝は、とても器の大きい人間に見えるだろう。  しかし、自分の知らない所で胸の内を、こともあろうに神嶽に曝してしまった今となっては、勝はただの偽善者となっていた。

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