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如月司編17-1 ※和姦、甘々

 放課後の学園内に、淑やかなグランドピアノの音色が響き渡っていた。  とても繊細で、どこか物悲しく、だが、秘められた力強さを感じさせる。  まるで彼の心を表しているようにさえ思える、美しくも儚い旋律。  神嶽は音楽室の扉を開けた。この哀愁漂う楽曲を弾く人間の正体は、司だった。  神嶽の訪問に気付いた司は演奏を止める。 「続けろ」 「……なんだ、案外ロマンチストなのだな」  くすり。長らく見たことのなかった、司の柔らかい笑み。  彼の細く白い手が、また鍵盤の上を流れるように踊る。  弾き慣れている楽曲であるからだろうか、司は時折瞳を閉じて自分だけの世界に浸り、曲に感情移入する。  この演奏技術も、彼が幼い頃からされてきた英才教育の賜物だ。  神嶽もまた、何を考えているのか、はたまた素直に司の演奏に聴き入っているだけなのか。  扉に寄りかかると、腕を組み、僅かに目を伏せて静かにそのメロディーを聴いていた。  曲が終わると、司は満足げに息を吐いた。どこかすっきりとした、憑き物が落ちたような表情をしていた。  相応の舞台と客さえ揃っていれば、素晴らしい演奏に感激の涙を流されるに違いない。  司はピアノを閉じ、背もたれのない椅子に座ったまま目の前にやって来た神嶽と向き合った。 「なあ、学園長。西條は、どんな様子だったんだ?」 「ああ。相変わらず感じやすい身体をしていた。とても幸せそうだったぞ」 「…………幸せ、か」  隼人の失踪に関して、あの場にいた司は当然よく知っている。  あれから隼人がどんな生活をしているのか、司には知る権利があるとしてたびたび神嶽から聞かされていた。  クラブに監禁され、表ではこうして失踪扱いになっている彼が、初めは単純にどうなってしまうのか心配な司であったが。  しかし、現実はとことんあの狂気の施設に心酔してしまったとも聞いて、彼ならやはりそうなってしまうか、と納得したような部分もあった。  隼人が司の前から消えたことで、司はある心変わりをしていた。  改めて神嶽の顔を見ると、その想いはみるみるうちに膨れ上がった。  司は気付いたのだ。  隼人がいなくなっても、悲しみや哀れみを感じない自分がいた。  むしろ、目の上のたん瘤が取れたように、爽快な気持ちでいたことに。  今となっては、何故あんなにも意地を張って、何をしてくれる訳でもない他人なんかの為に、不条理を耐えていたのかがわからない。  それほどまでに、司は窮屈な心を解放し、新たに形成した──いや、これまでの人格から封じ込めていたものをすくい上げたとも言える自分と向き合っていた。 「私、悪い子だな。あいつのことを考えても、何とも思わない。もう本当に卑しい奴隷になってしまったようだ」 「司」  神嶽は普段と何も変わらぬ冷たい声で、司の名を呟く。 「それでいいんだ」  そして、頭を撫でてやる。  本当にそう思っている訳ではない。必要だから肯定してやる。ただそれだけである。  “それだけ”でも、否定ばかりされてきた司には非常に効果があった。 (良い子じゃなくても……本当の私を見てくれる人間はいる)  努力の認知が、司の孤独な心を徐々に解きほぐしていった。  今の司は生き生きと輝いてさえいる。神嶽に全てを支配されることで、自由を手にしたのだ。  以前のように、いつでもピンと張り詰めていた気迫を緩和させた司は、年相応の少年らしく穏やかな笑みを見せた。 「お前が覚えているかはわからないが……。お前、私に言ったことがあっただろう。いつか私とわかり合える時が来るって」  敷かれたレールの上を歩んでいく人生を、何一つ疑いもしなかった春とは、何もかも変わってしまった現在。  その代償はあまりにも大きかった。  凄惨な凌辱をされた幼なじみへの良心や、最も憎い男への憎悪さえ薄れてしまうほどに狂ってしまった。 「あの言葉の意味が……。今なら、少しだけわかるような気がする」  立ち上がった司が、ほんの少し迷ったのちに、気恥ずかしそうに神嶽のシャツの袖を掴んだ。 「私はきっと…………お前と出会うことが、運命だったのだろうな」  凛とした瞳で目の前の正体不明の男を見上げる。  すると、神嶽の顔がゆっくりと近づき──互いの唇が触れた。  今の今まで、何度身体を重ねても、これだけは交わしたことはなかったというのに。  司は驚いたように目を見開いたが、抵抗はなかった。  その不思議な心地良さは、今までに味わったことがない感覚だった。そっと瞼を閉じ、彼のなすがままに身を預けていた。  強引な真似はせずに、司の全てを抱擁してやるかのごとく優しい、本物の恋人同士のように甘い口付け。  幾度となく口淫をしてきた司とて、こうして唇同士を合わせたことはまだなかった。紛れもなく司のファーストキスとなった。 (これが……キス……。私は……この男の……特別……?)  顔を離した神嶽は、表情を変えずに言う。 「これは、契約の証だ」 「契約? いったい、何の」 「お前は今日から、正式にクラブの所有物となる」 「……クラブの……。お前のものでは……ないのだな」  あわよくばとは考えてしまったが、神嶽ならやはり、そう言う気がしていた。そんな風に、少し残念そうに司は笑った。 「……それも、良いかもしれない。私はこれから、一生クラブに縛られて生きる。生きて……西條のように、弱い人間たちを……楽にしてやるんだ」  口元を綻ばせる司のその言葉に、悪意は微塵もなかった。  誰にも負けないよう気を張ってきた自分でさえこれだけ楽になったのだから、皆にもこの幸せを分けてやりたいと思った。  司が胸の内に抱いたのは、歪んだ善意の塊だった。  神嶽は殊勝な心掛けとばかりに頷いて、その場を立ち去ろうと背を向ける。だが、それは司が呼び止めた。 「あっ……。あ、の……今日は……その。……しないのか」  司は言ってからハッとして、動揺を紛らわすようにきつい銀縁眼鏡のブリッジを上げた。  あれだけの目に遭っていながら、彼に肉体関係を求めてしまうとは。  レンズ越しの瞳も、らしくない言葉を放ってしまった自分に驚き、戸惑いに揺れている。  神嶽は一度瞬きをしてから、司の手を握って己の胸に引き寄せた。 「するか」 「…………」  司はほんのりと頬を染め、コクリ、と頷いた。

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