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第3話
「ちょ、まっ・・・」
「・・・え?」
「か、かのくん!ストップ!」
思わずそう叫ぶと、目の前を走っている鹿野目がふっと振り返って止まった。ぜいぜいと上がった息が耳元で煩く響いている。もうすぐ季節は冬になるというのに、ガンガンと頭は熱く、額の上を汗が滑って落ちていく。足がふらふらでもう一歩も歩けそうにないというのに、鹿野目はというといつもの無表情で額に汗すらかいておらず、全く涼しい顔をしていると思う。
「き、君はアスリートか!?」
「・・・多分、違うと思います」
不思議そうな顔をして鹿野目が首を傾げる。それを見ながら堂嶋はどっと疲れたような気がした。全く冗談が通じない男である。アスリートじゃないことは良く知っていると思いながら、喉まで出かかったそれを、堂嶋は負けた気がして飲み込んだ。流石にいつも走っているだけあるというかなんというか、走りはじめた頃は少しペースが速いなと思ったけれど、10分も走らないうちにそれに全くついて行けなくて、堂嶋は鹿野目の持久力に感心すると同時に、自分の体力のなさを呪った。道の真ん中でじっとしているのも他のランナーに邪魔になるので、堂嶋はコースを外れて公園のベンチの方にふらふらと歩いて行った。
「悟さん?」
「俺ちょっともう休んでるから、鹿野くんは、気が済むまで走っておいでよ・・・」
「・・・あー・・・はい」
ベンチに腰を下ろすと鹿野目が何か言いたそうにちらちら見ていたが、堂嶋が力なく手を振ると大丈夫だということは分かったのか、そのまま軽快に走っていき、やがて堂嶋の視界から外れてしまった。ひとりになった堂嶋はベンチに深く腰掛けて、晴れている空を見上げた。出てきた時は酷く寒いと思った空気も、今は上がった体温を冷ますようにひんやりとしており心地が良い。目を瞑ったら眠ってしまいそうだと、いつでもどこでも眠たい堂嶋は思う。それにしても早起きしてやっていることがこんなことだなんて、一体どれだけ健康的なのだと思いながら、堂嶋は首に巻いたタオルで額の汗を拭った。
(あー・・・でも鹿野くんそういやちゃんと筋肉ついたいい体してる・・・)
ぼんやり鹿野目の体のラインを思い出しながら、堂嶋は首を振った。朝から一体何を考えているのだろう、思いながら唇の端から笑いが漏れた。耳が熱いのが、運動したせいなのか、それとも他の何かなのか、区別がつかなくて堂嶋はひとりで良かったと強く思った。
冬になりかけの風が冷たくて気持ちが良かったのは、足を止めて数分の間だけで、後は汗が冷えてやっぱり少し寒いと思った。いつもマンションと職場を往復する生活をしているので、そんな風に季節の移り変わりを肌で感じることも少ない。鹿野目はここで走りながら、木々が段々色付いて来たり、葉っぱが落ちてきたり、そういう当たり前の感覚と向き合っているのかもしれないなぁと、堂嶋はすっかり汗の引いた体で考えた。その表情だったり物言いだったりに温度が感じられない鹿野目が、こんな風に健康的に生きていることに堂嶋は思ったより驚いていたし多分感心していた。鹿野目が堂嶋の休んでいるベンチに帰ってきたのは、コースを5周走ってきたところで、1周も満足に走れなかった堂嶋は、鹿野目にもう一度アスリートなのかどうか確認したほうが良いかもしれないと思った。勿論そんな冗談は鹿野目には通用しないのだが。
「おつかれさま」
鹿野目が走っている間に、コースではない公園の周りをうろうろして、見つけた自動販売機で買った水を帰ってきた鹿野目に渡すと、鹿野目は僅かに目蓋を伏せてそれを受け取った。流石に5周も走って疲れたのか、鹿野目の額にも汗が浮いている。それをタオルで拭って、鹿野目は黙って堂嶋の隣に座った。元々あまり饒舌なほうではなかったけれど、そうやって鹿野目が黙っていると何を考えているのか分からなくなって、胸の中がざわざわしていた。今はその目の奥をじっと見ると大体ではあるが、考えていることが良いことなのか悪いことなのかくらいの判別はつくようになっていた。
「いつもこれくらい走ってるの」
「・・・あぁ、はい。時間がある時はもうちょっと走ったりしますけど」
鹿野目の尖った顎に汗が下りて、ぽたりと地面に消えていくのを、堂嶋は何となく見やっていた。疲れの色は確かにあるがそれでもまだ涼しい顔をしている、堂嶋は何だか色々負けたような気がして、唇から勝手に笑いが漏れるのを止められなかった。
「はは、君はホントに、すごいなぁ」
「・・・すごい?何がですか」
「だってこの後フツーに出勤して仕事したりするんだろう?凄いよ、俺には出来ないなー」
「慣れですよ、こんなの」
やや俯くようにして、鹿野目が何でもないことのように言う。嫌みがないから聞いていられるのだが、多分鹿野目以外に言われたら苛々するのだろうなぁと堂嶋はぼんやり考えていた。
「いや、でもすごいよ、君は管理職向きだなぁ」
「え?」
「試験受けなよ、鹿野くん」
笑って堂嶋が続ける。真中デザインは組織的には、平の所員とそれを束ねるリーダーと呼ばれる管理職、後は最近ほとんど柴田のためにできた副所長というポストと所長の真中という図で成り立っている。堂嶋は若いながらリーダーという管理職であり、鹿野目は3年目の平の所員である。所員がリーダーになるためには、勿論ポストに空きがないといけないのだが、管理職試験と呼ばれる試験を通過しないといけないことになっている。堂嶋も当時所属していた班のリーダーにそそのかされて、何となく受けたらそのまま通った口であり、特別リーダーになりたかったわけではなかった。もっとも性格的に何かを纏めたりするのは苦手であったので、時々柴田が説教するみたいに言うように向いていないのだろうと思ったけれど、通った試験を取り消してくれとも言えずに、何とか今まで所員に助けられながらやっているという状況である。
「柴さんが言ってたんだけど」
「・・・また柴さん」
堂嶋の話の中にはとかく柴田の名前が出てくる。もっとも鹿野目との話の中で、共通の知り合いとなると職場の人間が登場するのは定石的にも普通のことだとは分かっているが、それにしても柴田の登場回数が多い。仲が良いのか悪いのか分からない。鹿野目は一度柴田に聞いたことがあるが、本人ははっきり仲が良いわけではないと言っていた。学生ではないのだから、あくまでビジネスライクな関係ということなのだろうか。ちらりと堂嶋を見やると、自棄に楽しそうにしているのが目についた。柴田がどう思っているのかは謎であるが、堂嶋は怒られてばかりの割には柴田のことは好きなようであった。
「そうやって規則正しく生活送れることとか、そういうことも全部仕事の出来に関わってくるって」
「へぇ」
「俺は駄目だなぁ、だらけちゃうから」
ベンチの背もたれにもたれて堂嶋は、はははと快活に笑い声を上げた。それで柴田に怒られたのも、記憶に新しいような気がする。そもそも怒ってばかりの柴田が、そもそも管理職向きなのかどうか分からない、と堂嶋は思った。もっとも怒られてばかりなのは堂嶋にも責任があることだったのだが、その時は何故かひとつもそのことについては頭を掠めなかった、不思議なほどに。
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