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第4話
冷たい風が吹いている。それが堂嶋の前髪をふわっと揺らした。長いなと思ってから久しい、そろそろ髪の毛も切りに行ったほうが良い、仕事が立て込んできて休日出勤を余儀なくされる前に美容院に行かなければ、ふとそんなことを思った。
「今年は試験あるのかなー」
「・・・でも俺、まだ3年目ですよ」
隣で鹿野目が俯くようにしたまま、堂嶋の渡したペットボトルを開けて水を器用に飲んだ。堂嶋はそれを横目で見ながら、少しだけ喉が渇いたような気がした。管理職試験は、毎年あるわけではない。ポストが空かないと、基本的にはそのままである。今年は誰かが辞めるとか転職するとか、そういう話は聞いたことがないなと思いながら、堂嶋は首を回した。鹿野目が辞めると言っていたことは、その時まで忘れていて思い出さなかった。狭い事務所の中で、噂は光のように走り抜ける。きっと堂嶋の結婚話が破談になったことも、皆知っているしもしかしたらもうその話題には飽きてしまっている頃合いかもしれない。
「うん、まぁ年齢的に受かんないだろうね」
「・・・じゃあなんで」
「でも試験受けといたらさ、そういう方向に進みたいんだってアピールになるでしょ」
堂嶋が座った足をゆらゆら揺らしているのを見やって、鹿野目は半分くらいまともに聞いていなかったが、その時の堂嶋の言葉はすっと入ってきて少し慌てた。堂嶋は鹿野目よりも背が低いし、童顔で困った顔をしているのがデフォルトであったが、表情がくるくると忙しなく変わって、表情筋の良く動く人だなと思っていた。もっとも、鹿野目に比べれば誰でも表情筋の良く動く人には違いなかったが。鹿野目の隣の席に座っている堂嶋班の賑やかし担当である佐竹が、時々思い出したようにそういう余り気取らないところも、見た目の小動物的なところも、あんまり上司らしくなくて、そういうところが堂嶋さんのいいところなんだよと零していたのを思い出した。いつもくだらないことを言って困らせている割に、酷く優しい顔をしてそういうことを言うので、纏まっていないようで堂嶋班がちゃんと成り立っているのは、メンバーの能力が高いということだけではなくて、この人のそういうところが影響した結果なのだろうと鹿野目は密かに思っている。
「そういうのって結構大事だよ」
「・・・へぇ」
「後、試験受けたひとは皆真中さんが面接してくれるから、普段言えないことも聞いてもらえるし」
目を細めるようにして、堂嶋が言う。所長の真中は忙しくて余り事務所にいないし、いても平の所員が気軽に話しかけることが出来ない存在であった。誰がそんなことを言い出したわけではないが、何となく事務所にはそういう空気が流れている。それを気にして真中が若い所員を気遣っているのも毎年の事であった。最も、余りそういうことを考えない鹿野目は、真中を捕まえて堂嶋班に移りたいと直談判した過去があるのだったが。副所長の柴田でさえ、リーダーと話していることは多いが、あまり所員と一緒に居るのは見かけない。だからこそそういう機会は貴重なのだと、堂嶋の言いたいことはそういうことなのだろうと思った。堂嶋は柴田が思うような管理職の正しい形からは少しずれているのかもしれないが、リーダーになって所員とは見えるものがきっと違っているのだろうと、鹿野目はそれを聞きながら思っていた。
「って、言うのは全部柴さんの受け売りなんだけど!」
「・・・また柴さん」
「はは」
そうとは知らずに少し感心してしまったと思いながら、鹿野目は首筋に出てきた汗を拭いた。堂嶋はそんな鹿野目の胸中は察する様子なく、何やら楽しげに体を揺らしていた。それを見て少し子どもみたいだと、鹿野目は声には出さずに思う。
「でもまぁ、君は柴さんにも真中さんにも気に入られているみたいだし」
「・・・そうですか?」
「うん、だから2,3年後にはあっさりリーダーになっちゃうんだろうなぁ」
「・・・―――」
浮いてくる汗を拭きながら、自棄に楽しそうにそんなことを話す堂嶋を見ていた。2,3年後、それはどんな未来の事なのだろうと思った。一体どんな風にどんな格好でどんな顔をして、自分は堂嶋の隣にいるのだろうと思った。もしかしたらもう隣にはいないかもしれない、鹿野目はすっと目を細めた。そういうことばかりを女々しく考えていることを、きっと堂嶋は知っている。
「鹿野くん?」
不意に黙った鹿野目に、堂嶋が声をかける。鹿野目は無意識に口を塞いでいたタオルをすっと降ろした。息は大分整っていた。
「そしたら俺、悟さんの班にはもういられないですね」
「・・・あ、あぁリーダーになったら?それはそうだねぇ・・・」
「それは嫌だな」
ふっと息を吐くみたいな自然さで、鹿野目がそう言うのを、堂嶋は何ともなしに聞いていた。見やると鹿野目はいつもの無表情で、首筋の汗をタオルで拭いている。別段さっきの言葉に言葉以上の意味も重みもないようだった。そういうことをさらっと言えるあたり、そんなことをいつも考えているのだろうなと堂嶋は思った。鹿野目に信仰みたいに深く愛されているのは知っていた。どうして鹿野目がそんなに唯一無二みたいに自分のことを好きでいるのか、気にはなるが余り深く聞いたことがないので、堂嶋にはよく分からないのだが。けれどこんな何気ない普通の会話の端々に、とんでもなく自分は深く愛されていることに直面させられて、恥ずかしいような嬉しいようなくすぐったいような気持ちになる。それをぽつぽつ思い出したように落としてくる鹿野目が、何でもない顔をしていると余計に。堂嶋は小さく息を吐いて、勢いよくベンチの背もたれから背中を引きはがすと、鹿野目の方に手を伸ばしてその頭を両手でがちっと掴んだ。鹿野目は驚いたように目を開いて、堂嶋のことを見ている。いつも無表情だから、そうやって顔色を変えてくれるのが何だか嬉しい。
「君はホントに、かっわいいなぁ!」
「・・・な、んですか、急に・・・」
「なんでもないよ、そう思っただけ」
「・・・―――」
驚いた鹿野目はついっと視線を動かして、何か気持ちのやり場を探っているみたいだった。すっと頭から手を離すと、如実にほっとしたような顔をしたので、それにもう一度可愛いと思った。自分より遥かに背の高い男の子相手に、そんな気持ちを育たせるのは間違いなのかもしれないけれど、でもかわいいと思ってしまうのは仕方がない。堂嶋は人知れずそう思って、ベンチからひょいと立ち上がった。鹿野目の目がそれにつられて動いているのを、何となく背中で感じる。
「もう帰ろう、お腹すいたな、俺」
「・・・あぁ、はい」
「そうだ、駅前のさ、パン屋さんに寄って帰ろうよ、俺なんか甘いのが食べたい、デニッシュなやつ」
「開いてますかね、この時間」
時計を見ながら鹿野目が立ち上がる。7時を少し回っていた。
「鹿野くんは固いパンが好きだろう」
「あー・・・はい、甘いのよりは」
「そうでしょ、俺なんかそう言うの分かってきちゃったんだよねー」
はははと笑いながら堂嶋が先を急ぐのを、鹿野目はゆっくりついて歩いて行った。
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