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第5話

駅前のパン屋は開いていた。こんな早くからやっていて客が来るのだろうかと思ったが、休日は7時から開いているらしい。成る程と堂嶋は思ったが、おそらくもうこんな時間にパンを買いに来ることはないだろう。ブルーベリーのデニッシュと固くて丸いパンを買って、ふたりしてマンションまで戻ってきた。おそらくここを出てから帰って来るまでに消費したカロリーが、そのデニッシュで帳消しになる、もしかしたらプラスが出る可能性もある、と少しだけ堂嶋は思ったけれどテーブルに買ってきたパンを広げたら、もうそんなことは半分以上どうでも良くなっていた。おそらく食生活の変化や運動不足ではなく、そういう考え方がそもそも堂嶋を太らせている原因なのだろうが、堂嶋はそれには気付いていない。 「あー、パン美味しかったー」 ソファーに寝転んで、堂嶋はひとりで呟いていた。鹿野目はかいた汗が気持ち悪いのか、パンを食べるとさっさとシャワーを浴びに行ってしまった。なんというか鹿野目は、一緒に居ても余り無駄な時間がないようで、堂嶋がぼんやりしている時間も何かと忙しなくしていることが多かった。そんなことも一緒に生活をするようになって気付いたことだった。ソファーに仰向けに転がっていると、ほんの何時間前には眠っていたはずなのに、うとうとしてくるから不思議だった。そういえば学生の頃は体育の次の授業はとんでもなくいつも眠たかったなぁと、大した運動をしていないくせに堂嶋は思った。 (・・・ねむたい・・・) ぼんやりと部屋の天井を見ながら思う。自分はいつでもどこでもこんなに眠たいのに、鹿野目が眠れないことが不思議でならない。眠気に負けて堂嶋がすっと瞼を閉じた時だった、がちりとバスルームが開く音がして、ハッとして目を開ける。寝転がったままちらりと見やると、鹿野目が部屋着に着替えて出てくるのが見えた。髪の毛が濡れてしんなりしているので、いつもより少し幼く見えると堂嶋は寝転がったまま思って、笑いを漏らした。そうやってなんだか鹿野目が自分より年下なんだと思えたり、かわいいなと思えるところを見つけるたびに、堂嶋はひっそりと笑ってしまう、何がおかしいのか自分でもよく分からないけれど。 「悟さん、眠いんですか」 ふっと声が降ってくる。鹿野目の声がいつも低くて、一定の音で安定していて気持ちが良い。下から鹿野目の姿を見ていると、声がするたびに喉仏が上下して、彼はしっかり男の子なんだなぁとか、そういう当然のことを未だに考える。どうして自分が結婚を間近に控えた可愛い彼女ではなくて、この目つきの悪い年下の男と一緒に住むことを決意したのか、堂嶋は時々自分のことながら不思議に思う。 「・・・んー・・・ねむい・・・」 「そうですか、俺、今から洗濯しますけど、いいですか」 「うん・・・君は本当に、良く働くねぇ」 「・・・ありがとうございます」 鹿野目は小首を傾げて、頭の上にクエスチョンマークを浮かべながらそう言った。それを見てまた堂嶋は眠たい頭で、かわいいなぁと思って笑い声を漏らした。鹿野目の背中がすっと動いて視界から消えて、堂嶋は開けていた目をゆっくり閉じた。ややあって遠くで洗濯機の回るような機械的な音がしている、ような気がした。堂嶋の意識はそこまでしかなく、定かではない。鹿野目はというと、眠る堂嶋をそのままにして、普段は二人とも忙しくてそんなに頻繁にはできない洗濯をするために、洗濯機に洋服を突っ込んでいた。堂嶋が今の生活に端々に、はっとしたように不思議だと思うみたいなことと同じ尺度で、多分鹿野目も思っている。例えば洗濯機に入れる服が増えたなぁとか、そういうことをふとした折に感じて動きを止めて、じっと自分の手や足を見てしまう。そこに実際に生きている自分のことを、そうやって確かめている。酷い時は右手で左の腕を掴んで、そこにいることを確かめてしまうことすらある。鹿野目にとっては今の状況が奇跡の連続みたいなことで、ある日突然泡が弾けるみたいに消えてしまっても、なんら不思議ではないと思っている。そうしてなくなってしまうことの方が、最早自然にも思えることだってある。洗濯機が動きを止めて、中から湿った服を取出し、籠の中に入れる。 (今日は良く、晴れているな) 毎日の天気は走っている時に、嫌でも意識をさせられる。今日は良く晴れている、だからきっと洗濯物も良く乾くだろう。そういう小さいことが、鹿野目の中では小さくても幸せだった。晴れているとか、雨が降っているとか、暑いとか、寒いとか、そういうことは自分がはっきりと生きている感覚と何処か繋がっているから、そういうことをひとつひとつ感じられることは嬉しかった。そういうことを考えることができる余裕が、今の生活にはあるのだと思う。洗濯かごを持てリビングを過ると、堂嶋はソファーの上に仰向けになってすやすやと眠っていた。眠れない自分に比べて、堂嶋は良く眠る人だった。それを見ながら目を細める。少しだけそういうことが羨ましいなと思った。そういうことを考える回路が自分にもあることに、鹿野目は少し驚いている。 (何か掛けるもの、風邪ひく) 洗濯かごをベランダに置いてから、寝室に戻って毛布を引っ張ってきた。布団も干したいとふと思う。今日は晴れているから丁度良かった。毛布をゆっくり堂嶋にかける、重さで目が覚めるかなと少し思ったけれど、眠る堂嶋は身じろぎすらしなかった。それにほっとして鹿野目はベランダに出る。外はやっぱり少し寒くて、もうすぐ冬が来る気配がする。洗濯かごからひとつひとつ洋服を取り出して、丁寧に干しながら、東京の街並みに目を細める。何でもない、いつもの風景だった。いつもと違うのは空気が澄んでいる分、少しだけ遠くのビル群まで見えるような気がすることくらいだ。ふとタバコが吸いたいと思った。誰かの真似事ではじめたそれを未だに辞めることができないでいるが、事務所にいると班のメンバーだけでなく、喫煙者とはベランダで顔を合わせるから、それなりに話をすることもあり、それはそれで得だなと思っている。堂嶋は余り知らないだろうが、堂嶋の好きな柴田も喫煙者なので、時々仕事に関係のない何でもない話をすることもあった。 (煙草・・・は中か) ポケットにはなかった。洗濯物の近くで吸ったら堂嶋はきっと嫌な顔をするから、ここでは吸えないと、堂嶋が勝手に決めた部屋の中の唯一の喫煙スペースで考えた。洗濯物を全部干し終わって、鹿野目は空になった籠だけを持って部屋の中に入った。相変わらずソファーの上に、堂嶋は寝転がって眠っている。ゆっくり傍まで近寄って、鹿野目はそれをじっと見下ろしていた。不思議だった、堂嶋が部屋の中にいることも、そこで無防備に眠っていることも、呼べば返事をして笑ってくれることも、そういう当然みたいに思えることが全部、涙が出るくらいに鹿野目にとっては不思議だった。 (幸せだな、俺。多分世界で一番、幸せだ) 膝を折って近くで堂嶋の顔を見つめる。鹿野目にとっては何時間でも見つめていられる、それは愛しい人の顔だった。 (さとりさん) 名前を呼ぶように思って、指先でついと堂嶋の頬を撫でた。すると堂嶋がそれに気付いたみたいに睫毛を震わせて、すっと目を開けた。 「・・・かのくん?」 「はい」 「せんたく、おわったの?」 「・・・はい」 全部平仮名みたいな柔らかな口調で堂嶋が言う。それに返事をしながら、鹿野目は乾いた目をして泣きそうだと思った。泣いても良かった、そんな回路は自分にはもうなかったが。堂嶋がふっと笑って寝ぼけたような顔のまま、近くに座っている鹿野目に手を伸ばした。距離感が分からぬ腕が鹿野目の肩にぶつかる。 「いっしょにねる・・・?」 息を吐くように幸せだと思った。

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