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第8話

「かのくん、誰か来た」 「・・・きっと宅急便です、放っときましょう」 「いや、駄目だよ・・・俺出るよ・・・」 「酷い、悟さん、散々煽ったくせに」 鹿野目の指が唾液でてらてらと光っていた。恨めしそうに呟かれたが、堂嶋は鹿野目の手を逃れて、リビングを出て行った。堂嶋だって勿論、離れがたいなとは思ったけれど、彼らも仕事だ。後でもう一回来てもらう手もあったが、不在の場合ならまだしも、なんとなくそれを選択できなかった。廊下を少し歩いて、玄関の扉を開ける。てっきり宅急便か何かだと決めつけていた。鹿野目もそう言ったし、堂嶋が住みはじめてからもここに訪れてくる人なんて、概ねそんな用事でしかなかった。 「はー・・・い?」 だからその時、扉を開けたところに立っていたのが、マフラーに顔を半分埋めたかわいらしい女の子で、堂嶋は心底吃驚した。 「・・・あ、れ?」 ただ堂嶋だけでなく、彼女も驚いたのだろう。大きい黒目を見開いて、堂嶋のことをじっと見ている。ここに堂嶋が住んでいることを知っている人間はいないし、だとすれば彼女は鹿野目を訪ねてきたことになる。だが、あの鹿野目にこんな若くて可愛い女の子の知り合いがいるなんて、それも家にまで訪ねてくるような深い関係の女の子がいるなんて、全く考えたこともなかった。お互いにじっと黙ったまま、数秒過ぎてしまった後、堂嶋ははっとして慌てて背筋を伸ばした。ただ鹿野目に引っ張り出されたせいで、シャツが半分スラックスから飛び出ていたことには、残念ながら気づかなかった。 「え、えーと・・・鹿野くんに用事のひと・・・かな?」 務めて笑顔で首を傾げて堂嶋は尋ねたが、彼女はきゅっと目細めただけだった。 「どうしてここにいるの」 「・・・え?」 「悟さん」 後ろから鹿野目の声がして振り返ると、鹿野目は堂嶋の困った顔に焦点を合わせた後、扉の向こうに目をやった。堂嶋もすっと視線を戻したが、彼女はもうそこには立っていなかった。堂嶋が空けたままにした扉を潜って、玄関で一瞬で靴を脱ぐとそのままぴょんぴょんと跳ねるみたいな軽やかさで鹿野目に近づくと、そのまま正面から鹿野目のことをぎゅっと抱きしめた。堂嶋は吃驚して、口をあんぐりと開けたまま固まってしまった。鹿野目はいつもの無表情で抱き付いた女の子を見やってから、小さく溜め息を吐いた。 「亜子(アコ)、お前か、何だ急に」 「だって全然連絡してくれないんだもの、心配になって来ちゃったわ、お兄ちゃん」 亜子と呼ばれた女の子は言いながら、すっと鹿野目から腕を解いて距離を取った。そうして鹿野目を見上げてにこりと微笑む。堂嶋は目の前の情報の処理が追いつかないで、にこにこと微笑む亜子とその隣で小さく息を吐く鹿野目を交互に見やった。 「お、おにいちゃん・・・?」 「あ、すみません。悟さん、コイツ、亜子って言って俺の妹です」 「こんばんは。鹿野目亜子です。大学生やってます」 にこにこと笑った亜子は、先程の冷たい眼差しからは考えられないほど、丁寧に自己紹介をして頭を下げた。何の加工もされていない綺麗な真っ直ぐな黒髪が、マフラーの間から零れてさらさらと落ちて行った。堂嶋は後ろ手で開けっ放しだった扉を閉めると、背筋を伸ばしてどぎまぎしながらゆるりと頭を下げた。彼女に何と挨拶をしたらいいのか、よく分からなかった。一緒に住んでいることが露呈している以上、何を取り繕ったって無駄な気もするが。ルームシェアというのも言い訳としては苦ししい。 「あ、どうも・・・堂嶋です・・・お、お兄ちゃんの上司?です」 「ふふ、いいのよ、堂嶋さん。お兄ちゃんのことは全部知っているから」 「・・・ぜん、ぶ?」 冷や汗が背中を伝う。亜子は笑って隣の鹿野目の腕を掴んだ。きょうだいという割に、亜子と鹿野目は余り似ていなかった。性別のこともあるかもしれないが、目つきが悪くて尖ったところが多く、シャープな印象の兄に比べて、亜子は瞳の大きい女の子で、にこにこと笑った表情が実に健康的だと思った。掴んだ鹿野目の腕に甘えるように擦り寄る亜子のことを、少し困ったように見ている鹿野目に助けを求めたかったが、鹿野目の視線は堂嶋の方にはなくて、こんなこと久しぶりだと思った。鹿野目はどこにいたって堂嶋のことをよく見ている。会議中にすら、時々目が合ってどきりとするくらいなのに。 「堂嶋さんお兄ちゃんのカレシなんでしょう」 「・・・かれし・・・」 亜子が笑いながら言ったそれに、全く合点がいかなくて、それはまぁ彼女ではないから消去法で彼氏ということになるのかもしれないが、考えながらそれに頷いていいのかどうか考えていた。そういう名前の付くようなもので、自分たちの関係性をそういえば形容しようとしたことがなかった。 「あー・・・」 「悟さんいいです、取り合わなくて」 答えに窮していると鹿野目が会話を分断するみたいに、やや強引にそう言って来た。亜子はその腕に張り付いて、まだにこにこと鹿野目のことを見ている。 「亜子、変なこと言って悟さんを困らせるな」 「変なことじゃないわ、大事なことよ」 「それに来る時は連絡してくれないと困る」 「お兄ちゃんこの間、来たかったらいつでも来て良いって言ってくれたわ」 「それは悟さんがいなかったから・・・―――」 ぼんやりとして堂嶋は、目の前で鹿野目きょうだいがやり取りをするのを見ていた。鹿野目は不思議なコミュニケーションの形体を取る人間だと日頃から思っていたが、こうして客観的にふたりのやりとりを見ていると、鹿野目の受け答えも別段可笑しなところはなくて、普通の会話に思えたから不思議だった。流石きょうだいといったところなのか、おそらく他人には分かりえないチャンネルがあるのだろう。堂嶋は半ばそんな風に感心しながら、少しだけ疎外感の中にいた。 「何しに来たんだ」 「特別な用事はないわ、お兄ちゃんが元気かなと思って、顔を見に来たのよ」 「・・・大学生は暇だな」 「ふふ、ねぇ、お兄ちゃん、今日泊まっていってもいい?」 腕に張り付いたまま亜子が言う。鹿野目は困った顔のまま、堂嶋にすっと視線を向けた。答えを自分に求められても困るのだがと思いながら、堂嶋は良い人のふりをしてにこりと微笑んだ。ややあって亜子の視線が動いて堂嶋にぶつかって止まる。 「いいんじゃない」

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