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第7話
マンションの扉を閉め、廊下を歩いていると、後ろにいた鹿野目に後ろからすっと腕を引かれた。振り返ると鹿野目が何も言わずに、じっと堂嶋のことを見つめているのと目が合う。何か怒っているのか、機嫌が良くない。堂嶋はすっと口角を上げた。鹿野目の無表情を、そうして堂嶋は少しずつ読み取ることができるようになっていた。鹿野目が機嫌を悪くするようなことが、駅からここまでの間でなかったとは思うが、一体どうしたのだろう。鹿野目は単純みたいに真っ直ぐな思考をしている時もあれば、訳の分からぬことを考えていることもあり、どちらかで扱いは全然違う。予想が立たない分、後者かなと堂嶋考えた。
「どうしたの、鹿野くん、何か、怒ってるだろう?」
「・・・怒ってないです、別に」
「そうかな、機嫌があんまりよくないように見えるけど」
手を伸ばして色のない頬に触れると、鹿野目は眉間の皺を少し濃くした。そして取った腕を少し引くようにして堂嶋と距離を詰めると、顔を近づけてきた。堂嶋はそれにゆっくり目を閉じながら、最近構ってなかったからちょっと拗ねているのかなぁと少しだけ考えた。唇が触れて離れる。角度を変えてまた触れる。ふっと鹿野目の唇が軌道をそれて、堂嶋の首筋に押し当てられる。
「柴さんと仕事の後、悟さんいつも機嫌良いから」
そうしてぽつりと呟く。ちゅっちゅっと同じところを何度も吸われながら、堂嶋は真剣に目を伏せる鹿野目には悪いとは思ったが、吹き出してしまった。
「あっはっははは!」
「・・・悟さん」
「きみ!何を心配してるんだ!見境ないにもほどがあるだろ・・・柴さん・・・柴さんって・・・くくっ」
「・・・笑わらないでください」
「笑うよ!笑わずにいられないよ!」
困ったように堂嶋から離れようとする鹿野目の腕を掴んで、堂嶋は正面から彼をぎゅっと抱きしめた。またどうしたらいいのか分からずに、鹿野目は困ってじっとしている。
「ほんっとに馬鹿だなぁ君は」
「・・・悟さん」
「あー・・・笑いすぎて涙出てきたよ!鹿野くんのせいだよ・・・」
「すいません」
唇の端で謝って、鹿野目は堂嶋の目尻にキスを落とした。ちゅっと音がして浮いた水分を吸い取られる。見上げると鹿野目はそこで無表情で堂嶋のことを見下ろしており、別段ふざけている様子はない。そんなことは分かっていた。鹿野目はどうせ冗談を言うことなんてできない。
「君は本当に俺のことが好きなんだなぁ・・・柴さんにまで嫉妬するなんて・・・」
「駄目ですか」
「いや別に駄目じゃないけど・・・うーん駄目じゃないけど」
そんな風に愛される理由を堂嶋は知らない。それを鹿野目に確かめていいのかどうか分からない。鹿野目の目をじっと見つめていると、ゆらっと動いで鹿野目がまた触れるだけのキスをしてきた。目を瞑ってそれに応えて、堂嶋は鹿野目の首に腕を回してきゅっと絞めた。離れがたいからもう少し引っ付いていたいような気分がした。そういう気持ちを鹿野目相手に持つことになるなんて、一体誰か想像できたのだろう。鹿野目のキスがまた首筋に降りて、堂嶋はくすぐったくて首を少し振った。
「か、の、くん」
「悟さん、もうちょっと触りたい」
「う、うーん・・・」
「触っていいですか」
沈黙した黒の携帯電話の液晶をこちらに向けるだけで、黙らせられていたことを時々思い出す。そんなこと一度も聞いたことがない癖に、どうして今更確認してくるのだろう。近くで見る鹿野目の目はいつもの目と変わらないけれど、少しだけ火がついているのが堂嶋にも分かる。黙って首筋にすり寄ると、今日もいつもの香水の匂いがした。それから遅れて煙草の匂いがする。こちらはあまり好きではないけど、これにももう慣れた。鹿野目の温度はいつも低くて触るとヒヤッと冷たいけれど、それもはじめだけでこうしてちゃんとくっついていれば、だんだん温かくなっていくのを堂嶋はもう知っている。黙って首筋に顔を埋めていたら、うなじをその冷えた手で撫でられて背中がピクリと跳ねた。コートも脱がずに何をやっているのだろうと、ぼんやりしながら思う。
「悟さん」
「・・・答えようがないよ、そんなこと。聞かないでよ」
「どっちですか」
尚しつこく問いかける鹿野目は、きっと本当に意味が分からないのだろうと思った。背伸びをして鹿野目の唇にキスをすると、流石に鹿野目にも意味は分かったようだった。ぎゅっと強く抱きしめられて、堂嶋は息が出来ないと思った。そうやって何かを確かめるように答えを得たい鹿野目相手に、時々息が出来なくなることがあるのを、もう無視できない。
「今日、悟さん柴さんと出かけたから」
「・・・うん?」
抱き締めていた腕を緩めると、それをゆるゆると降ろして鹿野目は堂嶋の左手を掴んだ。そのままマンションの奥に引っ張られる。まだ廊下だったことを思い出しながら、堂嶋はそれに抵抗せずについて行った。リビングの電気を点けると、ふっと鹿野目が振り返って堂嶋の方を見た。
「きっと早く帰ってくるだろうと思って。だから俺も、半分くらい仕事、残して帰って来てしまいました」
「・・・―――」
「だから柴さんにはお礼を言わなきゃいけないくらいなのに、変だな」
独り言を呟くみたいに鹿野目が言う。堂嶋は肩を竦めて笑った。
「君はいつも変だよ」
すると鹿野目は少しだけ不本意みたいな顔をした。部屋の中はしんとしていて空気は冷え切っていた。鹿野目がコートを脱いで、くるりと振り返った。堂嶋は寒いから先にお風呂に入りたいなとぼんやり思った。こちらに伸びてきた鹿野目の手を掴んで、その指を銜える。鹿野目の手は大きくて指は長くて、ちゃんと節がしっかりしていて、男の子の手だなと思う。堂嶋は鹿野目の指が好きだったから、時々こんな風にして口に含んで食べるみたいな遊びをする。鹿野目がそれをどう思っているのか知らないが、堂嶋が指を吸ったり噛んだり舐めたりしているのを、特に止めることもせずに、ただじっとして火のついた目で見ている。ちゃんと男の子だなと思う鹿野目のパーツを、例えば女の子らしい柔らかな部分を欠いた鹿野目の尖った冷たいパーツを、口に含むほど好きだと思えるなんて不思議だった。ぼんやりした目で鹿野目を見ると、空いた右手で頬を撫でられた。寝室まで後何歩あるのだろう、それともソファーの方が近いだろうか。流石にフローリングに直接は痛いし冷たい。
「悟さん」
「・・・ん・・・?」
わざと知らないふりをして答えると鹿野目は、堂嶋の頬を撫でていた手をゆっくり下ろして、その首から肩、二の腕までを撫でた。
そこでチャイムが鳴ったのだ。
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