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第10話

ふっと夜中に目が覚めた。誰かの声がする、堂嶋は眠たい頭で思った。苦しそうな、呻き声のような、考えながらハッとして体を起こすと、隣で案の定鹿野目がまた悪夢を見ているらしく、眉間に皺を寄せて身を捩っていた。堂嶋は起こすべきかそっとしておくべきか考えて、その鹿野目の顔を覗き込んでどうしようもなく視線を彷徨わせた。するとふっと誰かの視線を感じて、反射的に顔を上げた。すると鹿野目の向こうで、布団の上に膝を立てて座ってじっとこちらを見ている亜子と目が合った。いつからそうしているのだろう、彼女はそこでそうして、一体何を見ているのだろう。鹿野目に伸ばしたはずの手を、堂嶋は悪戯が見つかった子どもみたいに、いつの間にか引込めていた。背筋に何故か嫌な汗をかく。あんなににこにこと笑顔を浮かべていた亜子は、暗がりの中でふたつの大きな目を光らせて酷い無表情だった。まるで兄のように。 「・・・あこ、ちゃん?」 堂嶋のか細い声に亜子はふっと唇を歪めた。笑ったような気配がしたが、それが明るい場所で見た笑顔とは違うことは分かっていた。亜子は立てた膝に顎を乗せると、気だるい仕草で悪夢を見ているらしい鹿野目に手を伸ばした。そしてその額をついっと撫でる。 「馬鹿なお兄ちゃん、きっと八代(ヤシロ)の夢を見ているんだわ」 「・・・やしろ・・・?」 「もう八代がいなくなんて何年経つと思っているのかしら、未だにこんな夢を見るなんて」 「・・・―――」 「かわいそうなおにいちゃん」 そうして亜子はひっそりと静かに笑った。 「・・・亜子ちゃん・・・八代って誰だ、鹿野くんは何でこんなに悪夢ばかり見て・・・」 「あら、知らないの、堂嶋さん。お兄ちゃんにてっきり聞いているのだと思ったけど」 「言わないんだ、鹿野くんは、俺が聞いても」 「ふうん、堂嶋さんって何も知らないのね」 「・・・―――」 「お兄ちゃんの事、何も知らないのね」 亜子の言うとおりだと思った。堂嶋は暗がりの中で自棄に冷静な亜子を眺めてそう思った。鹿野目とここで生活を始めて2ヶ月ほどになるけれど、自分は鹿野目の一体何を知っているのだろうと思った。その2ヶ月のことなどふたりのきょうだいが過ごした時間の前では何の意味もなさない。亜子が何も知らないと言って笑うことを、堂嶋は止めることが出来ない。そう思うと急に怖くなって、堂嶋は小さく震えた。それを見て亜子はふふふと目を三日月にして笑うと、まだうなされている鹿野目に手を伸ばしてその上半身をぐいと持ち上げるようにして膝の上に乗せるようにすると、両腕で鹿野目の体をぎゅっと抱きしめた。鹿野目は眠りが浅い割には起きる気配がなく、亜子の腕の中で何か出口を探すみたいに首を振って、まだ悪夢と戦っているようだった。 「お兄ちゃん、八代はもういないのよ、安心して」 「・・・―――」 「それともお父さんの夢を見ているの、お兄ちゃん」 膝の上で兄を抱いて亜子は俯いたまま、幼児にでも話しかけるかのようにとても優しく穏やかに続けた。堂嶋はそれを見ながら、小さく腕を振るわせていた。彼女は妹でありながら母のようでもあり、また鹿野目と長年連れ添った妻のようにも見えた。そしてその全てでこのきょうだいは完結しており、そのふたりの間に入るスペースが自分には用意されていないことを、堂嶋はその時痛烈に感じていた。何となく鹿野目と亜子の間には不思議な繋がりがあるような気がしていたが、堂嶋はいよいよここでたったひとりの他人に成り下がってしまって、鹿野目と亜子のことを眺めていることしかできなかった。 「堂嶋さん」 「・・・な、に」 不意に亜子は俯いて鹿野目の顔を見やったまま、堂嶋の名前をそう静かに呼んだ。その時亜子には自分は見えているのだと堂嶋は思った。急激に自分の影が薄くなり、この部屋から追い出されるところであったが、亜子が名前を呼んだところで、自分はここに存在を許されているのだと、堂嶋は静かに思った。存在を許される側でしかないことも分かっていた。 「水を持ってきてくれるかしら、お兄ちゃんに飲ませてあげたいから」 「・・・分かった」 堂嶋は立ち上がってキッチンへ向かった。冷蔵庫の中にミネラルウォーターがあったはずだ、機械的に思う。ふと見やったところで、布団の上で鹿野目を抱く亜子に対して、何の感情も動かなかったかと言われれば多分、それは嘘になるけれど堂嶋は今、自分が何と思うのが正しいのか分からなかった。ミネラルウォーターのペットボトルを持って、堂嶋は、鹿野目と亜子に近づいた。 「亜子ちゃん」 「ごめんなさい、堂嶋さん。お兄ちゃん眠ってしまったわ」 「・・・そう」 亜子の膝の上で鹿野目は大人しくなっており、悪夢から逃れて静かに寝息を立てていた。いつもそうだった、悪夢にうなされる鹿野目は、暫くすると落ち着いてまた眠っている。時々そのまま目が覚めることもあるようだったが、そんな時はひとりでベッドを抜け出してテレビを見ていたり煙草を吸ったりしていた。鹿野目はひとりの大人だったので、堂嶋はそんな鹿野目を勿論心配していたが、踏み込んでやるのもあまりよくないかと気を遣ったつもりで、鹿野目にそのことを深く尋ねはしなかった。確かに亜子の言うとおり、自分は鹿野目のことを何も知らない。知っているのはおそらく鹿野目が自分に晒しても良いと判断している部分のみだ、後は知らない。でももしかしたら知るのが怖くて何も手を打たなかったのではないだろうか、亜子を見つめながら堂嶋はひっそりと考えた。もっと踏み込んで心配してやっていれば良かったのだろうか、俯いて覚えていないと呟く鹿野目の悲痛な表情が蘇って、堂嶋はそんなこととても自分には出来ないような気がした。 「堂嶋さん、お兄ちゃんが言わないなら、私が教えてあげましょうか」 「え?」 「八代のことも、他の事でも」 鹿野目を膝に抱いたまま、亜子は立ち尽くしている堂嶋を見上げて、少しだけ口角を上げた。それは優越感だ、優越感が見せる笑みだ、知っている、堂嶋は思った。鹿野目は口を割らないだろう、悲痛だったが頑なだった鹿野目の横顔を思い出しながら、堂嶋は思った。だとすれば亜子から話を聞くことでしか、堂嶋は真実を知りえない。知り得たところでどうなるのかよく分からなかったけれど。 「教えてくれるの、亜子ちゃん」 「別に構わないわ、お兄ちゃんは嫌がるかもしれないけれど」 亜子の腕の中で鹿野目はひっそりと動かない。 「八代のこともお父さんのことも」 「・・・―――」 「どうしてお兄ちゃんが貴方のことを何かの信仰みたいに深く愛しているのかも」 「・・・亜子ちゃん・・・君は・・・」 ふっと暗がりで亜子は笑って、鹿野目を抱く手に力を込めた。鹿野目の表情は闇に溶けて半分以上窺い知れない、堂嶋は背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。 「言ったでしょう、私は何でも知っているのよ、お兄ちゃんの事なら、何でも」

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