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第11話

亜子はにこりと微笑んだ。 「気になったことはない?どうして堂嶋さんのことをお兄ちゃんがそんな風に唯一無二みたいに好きでいるのかって。あれ、でも流石に堂嶋さん、お兄ちゃんにそのことは聞いているのかしら」 首を傾げて亜子は呟いた。知らないことを、まるで知っているみたいだと堂嶋は思った。勿論、どうしてなんて何度も考えたことがある。鹿野目が堂嶋のことをまるでとても大事なものみたいに扱う時に、とんでもなく悪い宗教にでもはまっているみたいだと思ったことがある。真意を本人に問うてみたこともあるけれど、なにかとはぐらかされており、実際のところは聞けていない。亜子はそのことを知っているのだと思った。その時酷く確信めいた瞳をしていたから、亜子はそんなことを言いながら、一択しか持っていないのだろうと思った。鹿野目が話したのだろうか、ふたりしか知らないはずのことを亜子が知っているのはどう考えても可笑しい、けれど堂嶋には鹿野目がそれを亜子に話すとも思えなかった。そのふたりのきょうだいが、自分の知っているきょうだいの形をたとえしていなくても。嫌な想像だ、半分以上妄想だ。 「いいや知らない」 「へぇ、堂嶋さん信用がないのね」 「・・・そうだな」 勝ち誇ったように目を三日月にして笑う亜子に対して、堂嶋は他に何と言って良いのか分からなくて、適当に相槌を打ってすっときょうだいから視線を外した。部屋の隅はぼんやりと暗くて、昼間の明るさとは全く別の様相に見えた。何故だろうか。 「信用ない俺にも教えてくれるのか、亜子ちゃん随分親切だな」 「勿論、ただで教えてあげるわけじゃないわ、堂嶋さん、代わりに私のお願いもひとつ聞いて欲しいの」 「お願い・・・?」 「えぇ、お兄ちゃんと早く別れて欲しいの」 亜子は気を失ったように眠る鹿野目を膝に抱いたまま、その双眸を光らせて堂嶋を見つめた。彼女は真顔でもう笑っていなかった。鹿野目とは違い彼女は冗談を言うことができる女の子なのだろうが、勿論それが冗談の類ではないことを堂嶋は理解していた。 「・・・何でそんなこと」 「今すぐにとは言わないわ、でも早めに別れてあげて欲しいのよ」 それは答えになっていないと思ったけれど、何と言って良いのか分からずに黙ってしまった。黙ったままの堂嶋の方は見ないで、亜子は鹿野目を抱く両腕に力を込めた。堂嶋はそれを見ながら、そんな風にしては鹿野目が起きてしまうのではないかと背筋が冷えたが、鹿野目は身じろぎすらしなかった。亜子は知っているのだろうと思った。どうすれば鹿野目が起きてしまうのか、どこまでなら起こさないでいられるのか。そしてこの状況で鹿野目が意識なく眠っていることが、堂嶋は自身にとって有利なのか不利なのか分からなかった。二十歳を少し過ぎたばかりのただの女の子相手に、自分の良く知っている場所で喉元を掴まれるように動けなくて、こんなにも背中に嫌な汗をかいているなんて不思議だった。 「お兄ちゃんをあんまり幸せにしてあげないで欲しいの。どうせ後々かわいそうなことになるんだから。お兄ちゃんのためを思って、今すぐとは言わないけれど、早めに見切りをつけてあげて欲しいの」 何もない暗闇に呟くみたいに亜子がそう言ったことを、堂嶋は理解できなかった。 翌日、目覚めた鹿野目は、自分が悪夢を見ていたこともうなされていたことも亜子に抱き締められていたことも、何にも覚えていない様子だった。いつもと同じだ。目が覚める時は勿論記憶があるようだったが、うなされた後そのまま眠ってしまうと、翌朝には何にもなかったみたいになっていることが鹿野目の普通だった。そういう何でもなさが、堂嶋に踏み込むのを躊躇わせて、鹿野目が口を割らない原因になっていたのかもしれない。亜子は自分の荷物を纏めると、朝早くに一度自分のマンションに帰ると言った。 「お兄ちゃん、せめてメールに返事くらいしてくれる、生きているのか死んでいるのか分からないから」 「・・・分かったよ、お前も来る時は連絡しろ。悟さんもいるんだから」 マンションの玄関で、亜子は昨日と同じ服を着て、ジャケットまで羽織って出勤の準備が出来ている鹿野目のことを見上げていた。 「分かったわ。押しかけて悪かったわ」 「まぁいいけど」 タイミングは非常に悪かったものの、妹相手にそんな色欲塗れなこちらの実情を話すのは良くないと、鹿野目でも一応そういう常識を働かせてよくないと思い、返事を濁した。亜子はそれに唇の端っこを軽く上げて笑って、何だか見透かされているような気がすると鹿野目は思った。ヒールの高い黒いパンプスにタイツを履いた足を突っ込んで、亜子は扉の手前でもう一度振り返って鹿野目のことを見た。 「お兄ちゃん、堂嶋さんの事なんだけど」 「・・・なに」 亜子がなかなか帰ろうとしないので、若干苛々しながら鹿野目はそれに答えた。亜子はまた口角を引き上げて、そんな鹿野目のことを笑った。 「堂嶋さんに何にも話していないのね」 「・・・聞いたのか」 鹿野目の静かな声色に亜子は肩を竦めた。 「別にいいんだけど、でも堂嶋さんと長く一緒に居たいんだったら話すべきだと思うわ」 「長く一緒になんていられない、分かっているんだろ」 「・・・―――」 それは随分投げやりに聞こえた。亜子は鹿野目がそんなことを言うとは思っていなかったので、少しだけ驚いていた。けれど、本質では酷く弱気な兄らしいと冷静に思った。怖いのに強がる兄は不安定で不器用で可哀想だと、亜子は思っていた。 「そうなの、大した覚悟ね、流石お兄ちゃん」 「何が言いたいんだ、お前」 「別に、もう行くわ、さよならお兄ちゃん」 散々居座った割に、亜子はドアノブに手をかけてからの行動は実に素早く、するりとその扉を開けて自棄にあっさりと出て行ってしまった。その背中に何か言うべきことがまだあるような気がして、鹿野目は寒い玄関に立ったまま、暫くその扉を見ていた。妹は昔からおかしな思考をしていた、とおかしな思考をしている鹿野目は思う。そんなことは別に彼女が心配することではないのだ、かといって自分が心配することかと言われたら、それはまた別の話にはなるのだが。そういうことに気を回して、おそらくは半分以上楽しんでいる、鹿野目はそう思っている。亜子が理解の出来ない行動を取る時は大体いつもそうだった。大体いつも鹿野目が同じ思考の手順でそれを処理するから結局そうなるのかもしれないが。 出て行った亜子のことを思うみたいに扉を見つめていた鹿野目の背中を、廊下の奥で堂嶋はひっそりと息を殺すみたいに見ていた。

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