13 / 30

第13話

頭で大丈夫って思っても、案外心と体は大丈夫じゃないことも多いからと真中は優しい顔をして言って、堂嶋はまたふと良く知らない氷川のことを考えた。真中に言われるままに定時すらまだだったが、早退処理をして堂嶋はひとりでまだ明るい外を歩いてマンションまで帰った。ひとりきりの部屋の中はしんと静まり返っており、外の明かりでぼんやりと明るいような薄暗いような中間の色をしていた。それを見ながら目を細めて、真中の言うように自分は少し傷ついていたり疲れていたりするのだろうかと思った。考えると体がふとだるく感じて、堂嶋はコートをソファーに投げると寝室まで体を引き摺って歩き、ベッドの中に潜り込んだ。眠って忘れるのが一番だ、明日柴田には頭を切り替えて謝ればいい。元々話のできない人ではないから、きっと渋い顔をされるに決まっているけれど、きっと柴田もいつまでも堂嶋を怒鳴り散らしているわけにもいかないから、気まずいのはきっとはじめだけだ、多分。自分の体温が移った温かい布団の中で身じろいで、堂嶋はゆっくり目を閉じた。眠れる、自分は鹿野目のようには悪夢を見たりしないから、きっと眠れる。 『何にも知らないのね、堂嶋さん』 きっと眠れる。 ヒヤッとしたものが頬に触れて、堂嶋は睫毛を震わせて目を開けた。ここで寝入った時に比べて、随分と部屋の中が暗くなっている。ヒヤッとした体温がゆっくり頬の上を滑って、すっと離れた。瞬きをすると視界に突然鹿野目の顔が紛れ込んできた。 「悟さん、おはようございます」 「・・・おはよう・・・今何時・・・?」 「8時ですよ」 その時の鹿野目の表情はいつもより柔らかく、声も酷く優しく聞こえた。あんまり思い出したくはないが、柴田が怒鳴った時おそらく鹿野目も席に座っていて、場所は遠かったけれど、あれだけけたたましく柴田が吠えたのをきっと見ている。きっとあの時事務所の中にいた人間は全員見ている。優しいのもきっとそのせいだと思いながら、堂嶋は少しだけ恥ずかしくてそれからすっと視線を反らした。鹿野目はコートを着たままで、きっと帰ってきたところなのだろう。指先が冷えているのも外から帰ってきたばかりだからだ、考えながら堂嶋は体を起こすのが面倒臭くて、顔半分を枕に埋めた。 「悟さん、ケーキ買ってきました」 「・・・ケーキ?」 「甘いもの好きでしょう、食べて元気出してください」 「・・・―――」 鉄仮面のくせにそういう気は遣うんだなと思って、堂嶋は何やら必死に明るく努める鹿野目のことを見ていた。そして立ち上がろうとする鹿野目の腕を掴んだ。びんと引っ張られて鹿野目の足が止まる。振り返った切れ長の瞳が、自分を見下ろしていた。 「悟さん?」 鹿野目の声には答えなかった。ふっともう一度鹿野目が膝を折って傍に座り、横になったままの堂嶋の前髪をかき上げて、額に冷たい唇で触れた。そんな風にまるで宝物みたいに扱う癖に、肝心なことは何にも教えてくれないのだなと堂嶋はそれを見ながら思った。触れられたところからふわっと温度が移って温かくなる癖に、また冷えていくのにそんなに時間がかからないのはどうしてだろう。 「悟さん、何かあったかいもの飲みましょう、コーヒーか紅茶、寝られなくなるからコーヒーは止めといたほうが良いかな」 コーヒーのカフェインなんかで眠れなくなるほど、繊細な神経は持ち合わせていない、考えながら堂嶋はもう一度鹿野目の腕を引いた。鹿野目は少し困った顔をして迷った後、それからそっと顔を寄せて唇にキスをした。ふっと鹿野目が唇を離した時に、案外自分は亜子の来訪にも彼女の言動にもそして極めつけの鹿野目の言葉にも、振り回されたり傷ついたりしているのだなと思った。そんな触れるだけのキスでじんわり胸が温かくて少しだけでも安心できたような気がしたから、多分頭で考えるよりダメージを受けていたのだとぼんやり考える。真中の言っていたことが、まさかそのことだとは思えなかったけれど。 「悟さん、俺こんな時になんて言ったらいいのか分からなくて」 「・・・うん」 「すみません、情けなくて」 部下の立場もあって、変な慰めの言葉をかけるのも行けないと思っているらしい鹿野目は、鹿野目らしいと思ったけれど、堂嶋はそう言って逆に慰めてやるのも変な話だと思って何も言わなかった。鹿野目の手に指を絡めるとぎゅっと握り返してくれる、そんなことはしてくれるのに可笑しい、一番欲しい言葉はくれないなんて可笑しい。また暗がりで亜子が笑ったような気がした。 「鹿野くん、俺聞きたいことがあるんだけど」 「なんですか」 「君、時々夜うなされていることがあるだろう」 鹿野目は声に出さずにあぁと相槌を打つ口をした。思っていることと堂嶋が違うことを言い出したから、きっと混乱しているに違いないと思ったけれど、堂嶋はそれを見ないで代わりに鹿野目が握ってくれた自分の右手を見ていた。生白い手は温度がないみたいだった。 「一体何の夢を見ているの」 「・・・もしかして悟さんそれで毎回起きたりしてるんじゃ」 「まぁ起きることもあるけど」 「それで寝不足で注意散漫になってるんじゃ・・・」 ふっと動いた鹿野目の手をそこに縫い付けるみたいに堂嶋は握って、何か意図とは違うことを言い出す鹿野目のことは見なかった。見ないようにした。 「前に一度聞いた時に君は覚えていないと言ったけれど、心当たりくらいあるんだろう、あんなにうなされるなんて、可笑しいから」 「・・・何でそんなこと」 「知りたいんだ、教えてくれよ、本当のことを」 見上げたところで鹿野目は驚いたように、少しだけ目を見開いて堂嶋のことを見ていた。 「・・・そんなこと、悟さんは知らなくていい」 小さい声だったけれど、鹿野目は確かにそう言い放った。ベッドに横たわったまま、堂嶋は耳に冷たい水でも注がれているような気分だった。握られている手は段々温度を取り戻して温かくなっていくのに何故か、心臓の奥はどんどん冷えていって怖い程だった。堂嶋が目を開くと鹿野目は優しい顔をして、おそらく鹿野目にできる精一杯の優しい顔をしていたから、それが鹿野目なりの優しさなのだろうと思ったけれど、堂嶋にはそれを受け入れるだけのキャパがなかった。頭で優しさだと分かりながらまだ、心でそれを受け止めることが出来なかった。その時涙を流して鹿野目の同情を引いても良かったし、喚き散らして拳をぶつけても良かったのかもしれないけれど、堂嶋はそのどちらも出来なくて、いやする気力すら持てなくて、思ったより自分はぐずぐずに体の芯から疲弊しているのだと思った。それにふうんと返事をしたのかどうか、堂嶋も自分でよく分からなかった。鹿野目の注いだ水は、ベッドから零れていずれこの部屋の床を濡らすのだろう、どこを歩いても冷たいと感じるようになったらきっと、自分はここを出て行かなければいけないと堂嶋は布団の中で小さくなりながら思った。

ともだちにシェアしよう!