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第14話
「いらっしゃい」
扉を開けるとそこに亜子が立っていた。同じ白いマフラーをしていたけれど、今日はまた違ったベージュのコートを着ていて、それが細身の彼女に似合っていた。亜子は玄関でにこりと笑うと、黙って入ってきて丁寧にダークブラウンのブーツを脱いだ。そしてタイツの足を用意されたスリッパにするりと入れる。亜子は振り返ってそしてまたにこりと微笑んだ。
「思ったより早く決断してくれて嬉しいわ、堂嶋さん」
「・・・中入りなよ、寒いだろ、そこ」
大人げないと思ったけれど、亜子の言葉はスルーして、堂嶋は奥へと彼女を案内した。早退してから数日後、鹿野目の携帯電話を勝手に操作して亜子に連絡を取った。鹿野目が口を割らないならもういいと思った。自分でも吃驚するほど心が冷えていて気持ちが良い程だった。仕事の方は思ったよりも順調で、余計なことを言わなくなった堂嶋のことを時々柴田が心配したような目で見ていること以外は、特に変化がない。つまり変化はない。リビングは一定の温度に保たれていて、快適だった。堂嶋はテーブルの前に座って、亜子にも座るように促した。亜子はにこにこしながらコートを脱いだ。白いワンピースが目に痛い。
「お兄ちゃんあれから八代の夢は見てる?」
「・・・さぁ、見てるんじゃない、時々は」
「ふうん、八代の話はしてくれたのね」
「いや、何も」
亜子は大きい目をキラキラと輝かせて肩を竦めた。何だか行動と表情がちぐはぐだと思ったけれど、堂嶋はそれを指摘はしなかった。
「俺が聞いても何も言わないんだ」
「そうなの、それは困ったわね」
「亜子ちゃん、教えてくれるって言ったよね」
「勿論いいわよ、別れてくれるのなら」
楽しそうに亜子がそう言うのに、堂嶋は小さく溜め息を吐いた。
「別れるも何も、こんなこと長く続かないよ。鹿野くんもそう思ってる」
鹿野目がそう思っているのならば、きっとそうなのだろう、そこに自分の意図はないのかと堂嶋は少し思って、考えるのをやめにした。余り深く考えても仕方がないと思ったからだ、そうやって遠ざけてきたシワ寄せが急に来たことに、目眩すら覚える。けれど知らなくていいと言った鹿野目にそれ以上踏み込めないと思った。そうやって遮断されたら踏み込むことは堂嶋には出来ないと思った。ではこのまま何も知らずにうなされる彼の隣で時々目を開いて、その姿を見ていればいいのだろうか、それも出来ないと思った。亜子の勝ち誇った顔がちらつく。そのどちらも堂嶋には選択出来なかった。
「聞いていたの」
その時亜子は急に無表情になって、堂嶋は少しだけ困った。何と言ったらいいのか分からなくて、首を振ろうにも振れなくて困っていた。
「別にいいけど」
そうして亜子はまた小さく首を竦めた。
事の起こりは鹿野目が17歳の時まで遡る。当時、鹿野目は地元の普通の高校に通っていた。その頃、亜子は13歳であり、中学に上がったばっかりだったと言う。鹿野目は今の彼がそうであるように、決して快活なほうではなく、むしろ無口で良く俯いて歩いていた。その頃前髪を伸ばしていたのも、何となく人と目を合わせるのを避けるためだった。亜子は物心ついたころから外界と自分に折り合いをつけて、上手く振る舞うことも出来たけれど、兄は不器用ゆえにいつも自分の殻にも籠り切れずに、かといって騒がしい彼らと同調することも出来ずに、中途半端であった。亜子は兄の学校での様子を知らなかったけれど、何となく日々を過ごしている様子から、兄が大勢の中でうまく溶け込めずに浮いていることは分かっていた。小学校の高学年からそんな様子だった鹿野目は、中学そして高校と同じように、ただ過ぎる日々に目を伏せているようであった。亜子はそんな兄を妹ながらに心配していたが、別段いじめに遭っている風でもないし、毎日学校には行っていたので、何となく兄の毎日を想像しながら放置していた。亜子は今でも思う、放置していたのだろうと。
その日、亜子が学校から自転車を引いて帰ると、家の前に兄と同じ高校の制服を着た男の子が、手持無沙汰に立っていた。亜子はその姿を目にすると、きつく奥歯を噛んで、自転車を引く手に力を込めた。亜子が5メートルほど近づいた時、ふっと彼はこちらに気付いたみたいに目を向けた。そして亜子を見つけるとニヤッと笑った。その男が八代という名前だった。
「亜子ちゃん、お帰りぃ」
「また来てるの、八代」
「さんぐらいつけろよ、かわいくねーガキだな。お兄ちゃんは?」
「知らないわ、帰りなさいよ、ウチはラブホテルじゃないのよ」
笑う八代を睨みつけると、亜子はそう言い放った。押して来た自転車で八代を轢いてやりたい気持ちを押さえながら、それでも懸命に言葉を選んだつもりだった。
「はは、そうだな。またお父さんに殴られちゃお兄ちゃんが可哀想か」
「・・・アンタ、気付いて」
「まぁいいや、また学校で捕まえればいいし」
伸びた爪を噛んで、八代はやや俯いて独り言みたいにそう呟いた。そうして亜子の方を振り向く。どうして八代だったのか、亜子は分からないし、兄に聞いても納得のいく答えはくれなかった。鹿野目が自分の性癖が人とは違うと言うことに気付いたのは、おそらくこの頃だったと思う。鹿野目がどんどん俯いて、どんどん誰とも話さなくなって、自分から輪の外へ出ようとしながらもがいていたのも、おそらくは同級生の誰かに良からぬ気持ちでも育たせてしまったせいで、きっと勘のいい八代にそれを気付かれたのだ。真実は分からないので、亜子は自分の中でそういうストーリーを作って兄のことを見ている。そこで不気味に微笑む、一見快活で清潔そうに見える八代のことを、まさか兄が好きになったのだと、理解したくはなかったから。
「じゃあな、亜子ちゃん。今度3Pでもしようぜ」
ひらりと八代は手を振って、こちらに背を向けた。八代はというと、おそらくノーマルだった。鹿野目とそういう運びになったのは、多感な年頃の知的好奇心の末路だと亜子は思っている、それ以外に正常な脳で処理できないので、八代のことを誰かにも分かるみたいなルートで理解するのは亜子にはとても無理だった。教室で俯いて座っている兄と、明るく奔放な八代がどうしてそんな風に絡み合う結果こんな顛末になっているのか、考えるだけで頭が痛くて口の中一杯に苦い味が広がる。亜子はもしも兄が深く八代のことを愛しているのだとしても、高校生なんていう十代の責任感のなさゆえに、ただ深く愛しているとしても、絶対に自分は八代のことを認めるわけにはいかないし、兄と同じような気持ちを育たせることは不可能だと思った。亜子は誓うように何度も思って、ブレザーだけの八代の背中を見ていた。冷えた手で自転車のハンドルを握る。
「死ね、ゲスが」
そうして小さく呟く。
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