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第15話

亜子は自転車に跨り、そこに向かって帰ってきたはずだったが、家の前を通り過ぎて走った。冬の空気は冷たく、当たって頬が千切れるほどだと思ったけれど、何かを振り払うのにはちょうど良かった。ハンドルを切って、坂を上る。一番上にまで上ると、そこが開けた公園になっていて、家に帰って来ない時は、鹿野目はいつもここにいるのを亜子は知っていた。他に行くところを兄は知らないのだ、可哀想に。乱れた息を整えながら、自転車を降りて引いて歩く。からからと車輪の回る音だけが響いていた。鹿野目は先程別れた八代と全く同じ紺色のブレザーを着て、黒いマフラーを巻いて公園の一番端っこの柵にもたれていつも何かを見ていた。亜子はその兄の横顔を見るたびに、余りにも無力でいつも泣きそうになった。 「お兄ちゃん」 声をかけると、鹿野目はふっと振り返ってこちらを見た。相変わらず長い前髪をしている。その前髪に隠れて、右目の上が酷く晴れて紫色になっているのが見えた。亜子はそれに息を飲みこむ。昨日はなかった、毎日鹿野目の顔を確認するのは亜子の癖になっていたから、間違いないと思った。昨日手当をした唇の端は、つけたはずのテープが剥がれ落ちて、赤く熟れた傷口が目立っていた。 「お兄ちゃん、八代が家に来ていたわ、探していたみたい」 亜子は努めて冷静に鹿野目にそう言いながら、傍に自転車を止めて、籠に入っていたスクールバックを開いた。中にはオキシドールや包帯や脱脂綿などが詰め込まれている。奥に一応筆箱も入っていたが、教科書の類は一切なかった。だから亜子の鞄は開くといつも保健室の匂いがした。 「そうか、何か言っていたか、あいつ」 「別に。追い払っといた」 亜子は死んでも認めたくなかったが、兄と八代は一応付き合っている関係性らしい。どこまでが合意でどこからが非合意なのか不明だ。そして確かめようとも思わない。亜子にとってはその関係性ですら吐き気がした。兄に何度も言ったが、鹿野目は目を伏せるだけだった。 「お兄ちゃん、その目、どうしたの、八代?」 「違う、これは」 「お父さんね」 静かに呟いた亜子に、鹿野目は何も言わなかったからおそらくイエスだった。鹿野目は自分がゲイであることを認識すると、それを家族に吐露した。それが鹿野目が高校二年生の秋ごろだったように思う。母は泣いて、父は怒った。特に父の怒りは荒まじく、時々不用意な暴力になって鹿野目に注がれた。鹿野目はそれを受け入れるべき罰とでも思っているかのように、目を閉じて抵抗しなかった。黙っていれば良かったのに、そんなことわざわざ口にすべきことではないでしょうと亜子が後で鹿野目に言うと、彼はただそうかと呟いただけで、本当に吐露する以外の方法を知らないみたいだった。鹿野目は鹿野目で苦しんでいたから、吐露して家族に助けて欲しかったのかもしれないが、結局はそれが逆効果に終わった。 「手当してあげるわ、これは・・・ガーゼかな?」 「別にいい、お前俺に構っていると、怒られるぞ」 「どうして、お兄ちゃんを心配しない妹はいないわ」 家族の中で亜子だけが鹿野目の味方をした。亜子ちゃんはお兄ちゃんみたいにならないでと縋る母に大丈夫よと呟きながら、兄の傷口にオキシドールを塗った。そういう矛盾をきっと兄は理解できないのだと、不器用すぎるがゆえに傷つくしか対処の方法のない兄を見ながら亜子は思った。手当の手順がすっかり様になっていく自分のことを、心底嫌いになりそうになりながら、亜子は鹿野目の腫れた目の上にガーゼを当てて、唇の端にテープを張り直した。それでもすぐにこんなものは引き剥がされるのだろうと思いながら、そうせざるを得なかった。それしか方法がなかったのだから仕方がない。 「お兄ちゃん、もう八代と付き合うの止めなさいよ」 「・・・―――」 公園の柵にもたれる格好で、亜子は呟いた。そんなこと何十回も言って来たことだったが、未だに鹿野目には理解されないで、八代は我が物顔で玄関のポーチに立っていたりする。吐き気がする、考えながら亜子はまた奥歯を強く噛んでいた。 「何で八代なのよ、他に男なら一杯いるでしょう」 「・・・亜子、俺はゲイだ、お前とは違うんだ」 「どういう意味なのか分からないわ」 鹿野目のブレザーを掴むと、その手首がずるりと露わになる。そこに何かを縛ったような痕があって、亜子は思わず手を離した。鹿野目はそれを見ながらゆっくりブレザーを戻した。冬で良かったと亜子は心底思った、これが夏だったらと考えたら背筋が寒い。 「そんなことされて、どうして付き合わなきゃいけないのか分からないわ、それもゲイだからなの」 「・・・お前には分からないよ」 「もっと優しい人と付き合えばいいじゃない、お兄ちゃんを殴ったりしない優しい人と!何で八代なの、ゲイは性的倒錯とは違うのよ!」 「声が大きい」 鹿野目は俯いて小さくそれだけ言った。いつも本質に届かなくて苛々する。いつも苛々しているけれど、鹿野目の心には何にも響いていないみたいで悲しくて悔しかった。 「誰も聞いていないわ」 「もう帰れ、亜子」 静かにそう言われて、亜子は奥歯をまた痛いほど噛んだ。はじめに鹿野目を殴ったのはおそらく父だったと思うが、鹿野目のその無抵抗の雰囲気がいけなかったのか、それが八代の元々持っていた加虐趣味を刺激して、鹿野目は良く顔を腫らして帰ってくるようになっていた。亜子の鞄の中にはオキシドールが増えて、包帯が増えて、ガーゼが増えて、脱脂綿が増えた。それでも八代の暴力めいた愛情なのか何なのか、亜子には理解できない感情はおさまらなかったし、鹿野目は父どころか罰の意識など感じる必要のない八代に対しても無抵抗だった。おそらくそれは父に感じていた感情とは異なるところで、鹿野目は八代にも抵抗できなかった。どうしてできないのか、亜子には心底分からなかった。鹿野目が俯くことしかできないのならば、自分が代わりに殴ったってよかった。お兄ちゃんみたいにならないでねと泣いた母に泣かれることになっても、殴ったってよかった。 「心配なのよ、お兄ちゃん」 「・・・分かってる、でも」 「分かってないわ」 鹿野目は一度また深く目を伏せた。 「八代は、男の体でも触ってくれるんだ、他の連中じゃそうはいかない。俺はゲイだからもう二度と、こんな風に人と交われないかもしれない」 「・・・だから殴られても黙っているの、セックスしてくれる相手だから」 「亜子、やめろ。本当にお前、もう帰れ」 「お兄ちゃん、私、お父さんもお母さんも八代も皆皆、どうしてこんな風になっているのか、全然訳が分からないわ」 「・・・―――」 「でも一番分からないのはお兄ちゃんよ」 叫んでも届かないことが分かっていたから、亜子は両手を握りしめて、ぼんやりとこちらに腫れた目を向ける鹿野目のことを見ながら静かに呟いた。

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