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第16話

ふたりだけの部屋の中は、不思議なほどにしんと静まり返っていた。堂嶋はずっと俯いて、亜子の話を聞いていた。亜子がややあってそうして黙るまで、喉がカラカラなことに気が付いていなかった。気付けるだけの余裕が、亜子の話を聞いているだけの堂嶋にはなかった。きっと亜子にもなかったに違いない。ふっと顔を上げると亜子はテーブルを挟んで向こうに座っており、堂嶋と視線を合わすとまた少しだけ困ったように肩を竦めた。その仕草も表情も、どこか芝居がかったところはなくなっているようだった。亜子ははじめから、思えば不思議な不自然とともにあった。兄である鹿野目も余り普通の人間のカテゴリーに入らないので、妹が例えばどんなへんくつでも可笑しくはないような気がしたが、亜子は兄とは全く違うベクトルで歪みに歪んでいるのだろうと彼女の白すぎる頬を見ながら、堂嶋はひくりと喉を鳴らして思った。 「堂嶋さん、顔が真っ青だわ」 「・・・そう?」 「聞かなきゃ良かったと思ってるの?」 テーブルに両肘をついて、そこに頭を乗せると亜子はふふと笑った。彼女がそうして笑っているのは、全てが過去になったからなのだろうか。 「・・・思ってないよ、そりゃ未だに夢にでも見るんだろうなって、納得がいってる」 「何でも頭で考える人なのね、クリエイティブなお仕事なのに」 「どういうことだ、別に関係ないよ、そんなこと」 「そうなの?ふふ」 黒のストレートを揺らして亜子は笑った。本当は頭で何かひとつも理解できていなかった。鹿野目が目を伏せてそんなことは知らなくていいと呟いたそれを、こんな風に乱暴に暴いて一体如何しようというのだろう、堂嶋はふと不安になった。 「お兄ちゃんは今日帰って来ないの?」 「あぁ、多分遅くなる」 「そうなるように仕組んできたの、堂嶋さん、策士なのね」 「・・・―――」 亜子の冗談に、もう口角も動かない。堂嶋はそれを無表情で眺めていた。何と言えばいいのかも思いつかなかった。堂嶋はこれでも班のリーダーであったので、鹿野目の仕事量を調整しようと思えば、ある程度は可能だった。やや意図のあるそれを鹿野目がどう受け取って、今頃佐竹や徳井と話をしているのかどうか分からない。勘の鋭いところもあるけれど、抜けているところも鹿野目にはあるから、案外気づかないかもしれない。ただ自分だけはやく帰宅して、妹と向かい合って話をしているなんて、鹿野目はきっと思いもよらないだろうことは分かっている。亜子はテーブルを挟んで向こう側で、相変わらず何が可笑しいのかにこにこと微笑んでいる。狼狽する自分のことを滑稽だと思って見ているのだろうかと、堂嶋は酷く黒ずんだ気持ちで思った。さっきから自分の中のドロドロした感情が、流れ出すのを止められない。鹿野目が知らなくていいと言ったことは、鹿野目が知られたくないと思ったことで、それをこんな風に暴いた報いを、受けているのかもしれないし、これから受けるのかもしれない。亜子はそれを知っているのだと思った、そこでそうして微笑むだけで。 「八代はたぶんノーマルだったんだろうけど、自分の加虐性愛的なところを女の子相手に晒せなかったから、結局お兄ちゃんはその実験台になっていたんだと思う」 「・・・実験台」 「もう既に殴られていたお兄ちゃんはちょっとのことでは壊れないくらい頑丈に思えたんでしょうね。まぁ実際女の子よりも体もメンタルも頑丈だったんでしょうけど。10代の多感な溢れる知的好奇心だったのよ、結局」 そうはっきり言い切って、亜子はその表情をすっと無表情にした。そうして酷く極端に感情を押し殺すところは、兄にそっくりだとそれを見ながら堂嶋は思った。首筋に冷たい嫌な汗が流れる。亜子の言葉は全てが尖っていて、隠すところがなくて、取り繕うところがなくて、だからとてもぎすぎすして冷たく、胃の中に入って来るみたいで怖かった。そういう風に冷静な目で兄のことを傍で見ていた亜子は、今更言葉を選んで堂嶋を喜ばせたり安心させたりはしないのだろう。そんなことする必要がないから。 「信じたくないけど。お兄ちゃんが八代を愛していたんだとしても、別に八代はお兄ちゃんのことは好きでも何でもなかったのよ。私、結局それが一番お兄ちゃんにとって悲しいことだったんだと思うわ。もうずっと後になってからしか気付けなかったけれど」 それを後悔するみたいに亜子は奥歯を噛んだ。亜子はそうやって苦しみながら、何でもないふりをする鹿野目の傍にいたのだろうと、ぼんやり堂嶋は思った。そうやって上手く苦しむことが出来ない鹿野目の代わりに苦しむみたいに。似ているところと相反するところが共存しているきょうだいは、ふたりがひとつで初めて完全になるみたいな形をしている。そこに自分の入り込むスペースなどない。いつか暗がりを見つめて思ったことを、堂嶋はまた思い出すみたいに考えていた。 「続きを話してもいいかしら、堂嶋さん」 「・・・あぁ、うん」 「堂嶋さんの話をするわ」 そうして亜子は笑ったまま首を竦めた。 「堂嶋さん、いないのか」 隣に座っている佐竹がぽつりと言って、鹿野目はパソコンから顔を上げた。堂嶋班の中で内勤なのは佐竹と鹿野目だけだったようで、他のメンバーの姿はなく、堂嶋も席には座っていなかった。先程から佐竹は余り集中できないみたいで、他の班のデスクに何やら話しかけに行ったりしていたが、ようやく戻って来たかと思うと、今度は鹿野目に話を振ってくる。 「そうですね、出張ですか」 「うーん、違うんじゃない。何にも書いてないし」 佐竹がメンバーのスケジュールを把握するために設置された堂嶋班のホワイトボードを、指さしながら言った。鹿野目も反射的にそちらを見やる。リーダーの堂嶋の名前は一番上に書かれている。そこの予定は午前中は定例会となっているが、午後からは真っ白だ。他の所員はというと、鹿野目と佐竹以外は緑色の出張用のマグネットがついており、下に現場の場所が書いてある。ここに移った当初は慣れるまでのお目付け役みたいな感じで、徳井と組まされることが多かった鹿野目だが、半年経ってそれがもう必要ないと堂嶋が判断したのか、最近はべったり一緒に組まされることもなくなった。異動といっても狭い事務所の中なので、大まかな仕事の動かし方に変わりはないものの、やはり班ごとの特色というか、リーダーの方針というかやり方があって、それを体に馴染ませるための半年だったのだろうと鹿野目は思っている。堂嶋班は兎に角自由で、驚くほど各自に仕事の責任がかかっている。堂嶋は班のリーダーでありながら、自分が介入している以外の仕事に首を突っ込むことはせずに、終わった後の報告だけをただ事務的に聞いている。波多野はもっとメンバーに気を配る人で、その分自分で仕事を余り抱え込まないようにしていた。やり方は全然違う、どちらがいいとは鹿野目には分からなかったが。 「珍しいな、堂嶋さんが予定書き忘れるなんて」 「・・・そうですか?」 「うん、あのひとあれできっちりしてるから。鹿野も知ってるだろ?堂嶋さんって俺ぐらいの歳でさっさとリーダーになっちゃってさ、ほんとはばりばりのエリートなのに全然気取ったところがなくて」 「佐竹さんって堂嶋さんのこと好きですよね」 「好きだよ、ってか堂嶋班は皆堂嶋さんのこと好きだよ。鹿野もそうだろ?」 「そうですね、好きです」 目を伏せて答えると、佐竹が大袈裟に笑って鹿野目の背中をばしばしと叩いた。

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