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第17話

その頃、鹿野目はよく家に帰らずに近くの小高い公園にいた。そこの一番端っこの柵に凭れ掛かって、この誰の味方もしない街を見ていた。亜子は自転車を走らせては、鹿野目が嫌がってもその背中を追いかけた。自分だけは分かりやすく兄の味方をして兄の傍に居なければいけないと思っていた、強く。相変わらず家の中では時折、思い出したように父は激昂し、母は泣いていた。その両者に挟まれて、息が出来なくなる鹿野目に手を差し伸べるみたいな愚かさで八代は笑い、そして鹿野目の体には傷が増えた。亜子がどれだけ走り回っても、その傷の上からテープを張り続けても、消えるどころか増え続けるそれに、諦めたら終わりだと思って躍起になっていた。自分の学校生活や部活の事、群れる女の子たちと好きな先輩の話、そんなことに気をやる隙間もないくらい、亜子の日常は呆れるほど消毒液の匂いに満たされていた。 「何を見ているの、お兄ちゃん」 鹿野目が公園にいるのは、他に逃げ場がないせいで、それ以外ではないと思っていたが、どうやら違うらしいと気が付いたのは、もう季節が完全に冬になってからだった。おそらくはじめはそれ以外の理由などなかっただろうが、鹿野目はそこで公園の一番端っこの柵に凭れて、時間を潰す以外の意図を持って何かを見ていることに気付いたのは、やはり亜子が一番はじめだった。 「・・・なにって」 「文化祭?」 口を割らない鹿野目の隣に立って、亜子はそこからはじめて彼の見ている風景と同じものを見た。思えば兄の怪我の具合を毎日気にすることはあっても、鹿野目がそこで何を見ているかなど、今まで気にしたことがなかった。そこからは近くの大学が見えて、敷地内には沢山の学生がいるように見えた。彼らは寒空の下で縦横無尽に動いて、何かを作っているようだった。 「・・・大学の文化祭ってこんな時期なの?」 「違うだろ、多分、卒業制作だ」 「・・・卒業制作?」 鹿野目がまともに口をきいてくれたのは、久しぶりだと思いながら、亜子はそれに嬉しさを出来るだけ滲ませずに答えた。そんなことを言えば、また何日も口を閉ざすに決まっていた。兄はそういう面倒臭いものでできていた、本当にメンタルが女の子よりも頑丈だったのか、亜子は考えないようにしている。視線を大学に戻す。マフラーを巻いてコートを着たひとりの学生が、周りの学生に指示を出すみたいに動いている。ここで毎日死んだような日々を送っていたきょうだいにとって、それは余りにも生きているひとの形と温度と動力をしていて眩しい。亜子は目を細めて思った、眩しいと思った。 「何を作っているのかしらね」 「分からない、でも毎日、ちょっとずつできてるんだ」 「・・・―――」 兄がそれをいつから見ていたのか、亜子は知らない。だけどその時鹿野目の殴られたせいで腫れた目が、一瞬キラッと光って、亜子はそれに息を飲んでいた。兄がまだそんな希望を持った目をしているなんて、そんな目をして誰かのことを見ているなんて、信じられなかった。亜子はその時、八代と歪んだ家庭内の軋轢の中で、兄がいつ高いところから飛び降りたって、洗剤を飲み干したって、首をくくったって、可笑しくないし驚きやしないだろうと思っていた。けれどそんな亜子の推測とは全く別のところで、兄はこの誰も味方をしてくれない街の中で、ひっそりと毎日に楽しみを見出していた。それに気付いて、亜子は震えるほど嬉しかった。そこで涙を流してしまうかもしれないと思うほど、嬉しくて堪らなかった。まさか鹿野目にそれを言うことは出来なかったけれど、また奥歯を噛んで冷たい柵を握って、亜子は久しぶりに自分の中に溢れる陽性の感情に耐えていた。兄を生かす何かが、この街の中にまだあったなんてひどい偶然で奇跡的なことだと思った。 それから黙ってふたりで、柵に凭れたまま暫く過ごした。今考えても、あれがふたりの間で一番幸せで穏やかな時間だった。家の中は相変わらずだったし、八代は下品な笑いを立てていたが、亜子はそれが前よりも気にならなくなっていた。もっとも兄の傷の具合も良くならなかったので、それには気をやらなければならなかったが。けれど明日起きた時兄はもうこの世の中にはいないかもしれないと考えながら眠らなくても良くなって、亜子はそれに単純だったが少しだけ救われていた。兄がどこかの大学の誰かも知らない人間が作るものに興味を持って、その出来上がりを楽しみにしていることが、兎に角あれが出来上がって形になるまで兄はきっと生きていてくれるだろうと、大袈裟かもしれないがそんな風に思っていた。 「堂嶋悟さん」 それから暫くして、亜子は一枚の写真を兄に渡した。 「・・・これ」 「アレ、作ってる人よ。お兄ちゃん知りたいかと思って調べたわ」 「お前また余計な・・・」 「あら、要らないなら処分するけど」 手を出すと鹿野目は少し迷った目をして、それから写真に目を戻した。亜子に返す気はないらしい。そこには隠し撮りよろしく目線のずれた堂嶋が写っている。いつもと同じマフラーをして、黒のコートを着て、誰かに指示を出しているみたいな手の形と真剣な目をしている。いつも遠くからしか見ていなかったので、毎日見ていたけれどそうして見ると新鮮だった。 「大学の4年生で建築デザイン学科なんですって。身長170cmで体重57kg、好きな食べ物は甘いもの、よくケーキを女の子と食べているわ。学校の近くに下宿している。家族構成は父、母、兄で、実家は堂嶋建設っていって建設会社なんですって、そんなに大きな会社じゃないみたいだけど、着ている服とか持っているものとかブランド品が自棄に多いのはそのせいかしら、ボンボンね」 「・・・調べたのか、亜子」 「お兄ちゃんが知りたいかと思って」 髪をかき上げて亜子が言うと、鹿野目はまた困ったように目線を泳がせて俯いた。 「好きなの、お兄ちゃん、そのひとのこと」 「・・・―――」 亜子の鋭く正確な矢みたいな言葉が冷たい空気を切り裂くみたいに響いた。ぱっと鹿野目が顔を上げて、戸惑ったみたいに眉を顰めた。そしてゆっくり手の中の写真に目を戻して、それから小さく息を吐いた。唇から白い息が煙みたいに吐き出される。 「分からない。でも」 「毎日きらきらした目をしていて、あんな風に楽しく生きていて、俺とどう違うんだろうって思う」 「それは知りたい、かな」 そこはいつも消毒液の匂いがした。鹿野目が俯いて、自分の中の言葉を選んで選んで考えているのを、亜子はそこで静かに聞いていた。答えなんて本当は何でも良かったのかもしれない。兄がそこで死なない選択さえしてくれれば、亜子にとって答えなんて全部一緒で同じだったからだ。そこで写真を見つめて久しぶりに人間のような顔をする兄を見ながら、亜子は目を細めていた。眩しいと思った。兄はまだそんな眩しい顔を、表情をすることができるのだと思った。それが自分相手ではなかったことについては、少しだけ悔しいような気がしたけれど、そんなことは最早問題ではないくらい、亜子はそれが嬉しかったし、その写真の中に写る実態の分からぬ堂嶋という男に感謝すらした。それが偶然でも奇跡でも何でも良かった。亜子はぐっと拳を握りしめて思った。 愛されなかった痛みが愛することでしか癒せないなんて、一方では酷く滑稽なような気もするけれど。

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