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第18話
先ほどの八代の話も鹿野目の家族の話もショッキングであったし、堂嶋はどう処理をしたらいいのか分からなかったけれど、自分の話となると、輪をかけて訳が分からなくなって、混乱しながらそれでも亜子の話を遮らないように聞いていることしかできなかった。卒業制作なんて、もうずっと前の話で自分のことながら上手く思い出せないくらいなのに。それを引っ張り出しても、勿論堂嶋の記憶の中には鹿野目はいない。そんな風に一方的に見られていたり、それこそ写真を撮られていたり、調べられているなんて思いもよらなかった。今亜子が話をしてくれたところでも、それを俄かには信じがたいと思ってすらいる。けれど目の前に座る亜子の目は鋭く、嘘はどこにもないのだと思わざるを得なかった。彼女は鹿野目とは違って冗談を言える女の子であったが、これがそれとは違うことを堂嶋は確かめなくても分かっていた。分かっているつもりだった。
「ずっと見ていたのよ、私とお兄ちゃん」
「・・・―――」
「貴方の卒業制作が出来るまで、あの公園の上から、ずっと」
静かな声だった。亜子の声からはもういつしか感じた愉悦は感じられなくなっていた。堂嶋はそれをどんな顔をしたらいいのか分からなくて、亜子の顔を正面から見続けることも出来なくて、俯いて聞いていた。勿論そんなことは、微塵も知らなかった。鹿野目は真中デザインに入社した時から堂嶋のことが好きらしくて、堂嶋のことを熱心に見つめていたようだったが、それ以前のことを堂嶋は知らなかった。そのことですら後で柴田に聞いて知ったことなのだ。その鈍い堂嶋が気付けるはずがなかった。きっと真中も柴田も、そのほかの所員も知らないだろう。いつだったか、柴田はどこでお前の仕事を見て鹿野目が憧れているか知らないが、と言っていた。知らないはずだ。鹿野目は堂嶋が真中デザインに入る前から、堂嶋のことを知っており見ていたのだ。それは途方もなく長い間に思えた。目眩がするほど長い間に思えた。そんなに長い間、一体どんな思いで鹿野目は堂嶋のことを見ていたのだろう。一方で鹿野目の後先考えなかった過去の暴行も、真摯に呟かれた愛の言葉も、亜子の話を聞いてしまえば、何処か腑に落ちるような気がしたから不思議だった。
「それからお兄ちゃん、吃驚するほど勉強して貴方と同じ大学に行ったわ。今までそんなことに興味なかったくせに、勉強はじめたら案外楽しかったみたい。大学入ってからは家出ちゃったから、あんまり詳しくは分からないけど、大学時代はそれなりに楽しくやっていたみたいだし。それで今のところに就職して、現在に至るって感じかしら」
言葉を切って亜子は、何かを思い出すみたいにゆっくりと瞬きをした。その時亜子が真っ黒の双眸で見ていたのは、かつてきょうだいが酷い現実と外界から逃げ出す手段に使った公園かもしれないし、そこから鹿野目が見ていた希望の光景かもしれなかった。どちらでもよかったけれど、目の前に座って俯いてこの話の出口を探している堂嶋ではなかった。それではないのは明らかだった。
「お兄ちゃんは大学を期に家を出ちゃってから、一度も実家には帰って来てないわ。うちではもうお兄ちゃんはいないことになっているの。八代は地方の大学に行ったって話で聞いたから、それ以来もう会っていないと思うけど、あの様子じゃ未だにしっかりトラウマは残っているみたいね」
そして亜子はゆっくりおそらく意図的に、やっと顔を上げた堂嶋に視線を合わせた。堂嶋は亜子の顔を見ながらぼんやりと、鹿野目と同じ強くて真っ直ぐな目だと思った。しっかりと血の繋がりを感じさせる目だった。この目の前に自分は酷く無力で惨めだった。惨めだと思った。
「堂嶋さん、だから私、はじめにあなたがここにいるのを知った時、心臓が飛び出るかと思うほど吃驚したわ」
「・・・そんな風に見えなかったけど」
ここのマンションの扉を開けた時、亜子は確かに一度酷い無表情になって、どうしているのと力なく呟いていた。それを思い出しながら、堂嶋は言葉を続けた。思い返せば、あれは堂嶋を知っている人間の言葉だった。堂嶋自身は亜子と対面したのは初めてだったが、亜子は知っていたのだ、堂嶋のことを。亜子は少しそれに笑うと、ストレートの黒髪をかき上げた。さらさらと零れてそれが落ちていく。
「取り繕うのは得意なのよ」
「そうか、鹿野くんも得意だ、きょうだいだな」
「そうね」
目を伏せて、亜子は静かに笑った。その肩の震えが止んで、亜子の話は全て終わったのだと堂嶋は感じた。鹿野目が知らないで良いと言ったことを全て、暴いてしまってから、堂嶋はひっそりと後悔をした。ひっそりと後悔をしてから、またそれで良かったのだと思った。良かったのだと自分で自分を慰めないとやっていられない。考えながら堂嶋はカラカラに渇いた喉に水を入れた。冷えた水が体内で温められて温度が上がっていくのを如実に感じて、それを酷く気持ち悪く感じた。
「堂嶋さん、あなたがお兄ちゃんと付き合っているなんて、こんな馬鹿なことはないと思うわ」
「・・・馬鹿なことって」
「だってそうじゃない。貴方の知的好奇心は大したものだと思うわ。ヘテロのくせに同性相手に足を開くなんて、八代みたいな頭の可笑しい連中のすることよ」
「・・・―――」
頭の可笑しいと言われても、堂嶋にはそれに反論するだけの余地がなかった。だって自分でも半分くらい可笑しなことだと分かっているし思っているからだ。亜子の言うことはいつも正しさに満ち満ちて嫌になる。世の中には曖昧にしておいたほうが良いことや、悪徳でも目を伏せておいたほうが良いことだって沢山あるのだ。それを全て晒して白黒はっきりつけるなんて、そんなに恐ろしいことはない。鹿野目のことを上手く誰にも説明できないということは、きっとそういうことなのだろう。間違いはないのだろう。考えながら堂嶋は亜子の冷たい表情を見ていた。彼女は優しい言葉で誰も救わない。堂嶋のことも救わない。救う必要がないからだ。そうした真っ直ぐなところは兄に似ていると思った。尖った痛々しいところも。
「でもそんなこと、長くは続かないのよ」
亜子が泊まったあの日、出て行く亜子に向かって長くは続かないと呟いた鹿野目の歪んだ背骨の形が見えてくるようだった。堂嶋はそれに嫌な予感がしたけれど、亜子の言葉を上手く堰き止める方法がなくて、ただそれを聞いていることしかできなかった。空しく。
「お兄ちゃんに信仰みたいに深く愛されて嬉しかった?今までにないくらいの優越感だった?自己肯定感だった?」
「でもあなたは所詮ヘテロなのよ、堂嶋さん。女と結婚して子どもを作ることだってできるわ」
「セックスの時に気持ち悪くて女の腹の上にゲロ吐いちゃうようなお兄ちゃんとは違うのよ」
亜子の声は静かだった。まるで元々決められているセリフをなぞるように淡々としていて、温度がなくてひどく冷たかった。けれどそれなのに何故かそれは亜子自身の現実が伴っている、確かな意味のある言葉だと思えた。思えたけれど、堂嶋はそれをどんな風に受け入れればいいのか分からなかった。俯いた鹿野目の顔が浮かんだ。彼女と別れてきたと言ったら、嬉しそうな顔など微塵もせずに、それこそ悲痛に顔を歪めてどうしてと泣きそうな声で言った鹿野目の顔が浮かんだ。本当ならばあそこで自分はやはり、咲に手を突いて土下座でも何でもして許しを請うて、結婚していれば良かったのかもしれないと、堂嶋は久しぶりに咲のことを鮮明に思い出しながら考えた。どうしても幸せにならなきゃいけないと絞り出すように言った鹿野目の声が蘇ってくる、そんなことは今更できるわけがないし遡っても結局出来やしないと思っている一方で、まだそんなことを考えてしまう余地のある自分は、亜子の言うように『所詮ヘテロ』なのだろうと思った。
「ゲイとして生きる気概もない癖に、そんな自分の満足感のためだけに、お兄ちゃんに幸せを見せないであげて」
「どうせあなたはお兄ちゃんとは生きられない」
「手を切るくせに」
亜子の冷たい言葉に対して、堂嶋は何も言えずに、ただ息を飲んでいた。
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