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第19話

「お兄ちゃんって、馬鹿正直なところがあるから、恋人がいない時は私にも構ってくれるんだけど、恋人ができると途端にメールとか電話とかしてくれなくなるの」 「だからすぐに分かったわ、お兄ちゃん新しい彼氏ができたんだろうなって」 「でもそれが貴方だとは思わなかったわ、堂嶋さん」 すっと言葉を切って、亜子は真正面から堂嶋を見つめた。長い話にあてられて、堂嶋は青い顔をして俯いている。それはあの公園の上から見ていた堂嶋の姿と、そんなに遜色がなく見えて、亜子は人間はそんなに簡単に変わったりしないことに、驚きながら一方で多分少しがっかりしていた。兄がそこで見ていたのが卒業制作そのものだったのか、それともそれを指揮する堂嶋だったのか、亜子にはよく分からない。あそこで写真を渡してしまったから、兄は創作物ではなくその人にも興味を持ったのかもしれないし、順番は逆かもしれなかった。どちらでもこんな結果になっているのだから、そんなことを見極めることに意味なんてないのかもしれないが。亜子は堂嶋から少し視線を外して小さく息を吐いた。 「うちの家、お父さんと八代の間でいつもぼろぼろだったあの頃のお兄ちゃんを支えていたのは、間違いなく堂嶋さんだったから」 「お兄ちゃんがどんなトリック使って、貴方を落としたのか知らないけど」 堂嶋は俯いていた顔を少し上げて、ちらりと亜子を見た。亜子の視線はこちらにはなく、宙に投げかけられていた。彼女でも知らないことがあることが、当然のはずが何故か不思議に思えた。亜子は何でも知っていると言ったし、実際に堂嶋より遥かに何でも知っていた。それは彼女が鹿野目の血縁だからとか、そういう理屈とはまた別の意味合いを持っていそうで、中々熟考するには勇気がいった。 「堂嶋さん、頭が良いから分かるでしょう」 「貴方がお兄ちゃんにとって神様みたいな存在だったからこそ、貴方はお兄ちゃんの傍に長くいちゃいけないのよ」 「貴方に手を切られたら、お兄ちゃんは今度こそ行く場所がなくなってしまうから」 そうして、そんな方法で兄の行方を心配する亜子は、妹以外の何かであるような気がした。彼女が妹以外の何かではないことは分かっているつもりだったが、それでもそうではないのかと思わせてしまうほど、亜子はそれらしかった。うなされた鹿野目を膝に抱いたことも多分、全部。堂嶋はそれを見ながらそれに頷きそうになりながら、何とか耐えていた。 「もしも堂嶋さん、貴方がお兄ちゃんのこと少しでも好きなんだったら、長くは一緒に居ないであげて」 「その方がきっと、傷が浅くて済むわ」 最後の言葉は酷く弱弱しく聞こえて、亜子らしくなかった。 ガチリと扉の開く音がして、鹿野目が帰ってきたのだと思った。亜子は話が終わると呆気なくこの部屋から姿を消してしまって、だから堂嶋は一人でいるしかなかった。鹿野目といる前は咲といたし、こんな風に部屋の中でひとりでいることが、久しぶりだったから、どうやって過ごして時間を潰していればいいのか、そんなことも分からなかった。だから鹿野目が帰ってきたことが分かった時にほっとしている自分がいて、けれどそれは鹿野目だからとかそういう意味ではなくて、ひとりでいることが苦手なだけなのだと結論付けて立ち上がった。リビングから廊下に続く扉を開けると、鹿野目は玄関で靴を脱いでいるところだった。外は寒かったのだろう、色のない頬をしている。ぱっと鹿野目が顔を上げて、堂嶋はそれに向かって微笑んだ。 「おかえり、鹿野くん」 「・・・ただいま・・帰りました」 少しだけ迷った風に鹿野目はそう言って、何故だか困った顔をした。大体管理職である堂嶋の方が帰るのが遅いから、逆になることは珍しいのだが、時々こんな風に迎える方と迎えられる方の立場が入れ替わることがある。鹿野目がそのままリビングに入ってきて、首に巻いた黒いマフラーを取る。堂嶋はそれを見ながら、鹿野目のコートの袖口を引っ張った。 「・・・なんですか、悟さん」 気付いて振り返って、鹿野目が言う。その目は静かに凪いでいて、本当に分からないからそう尋ねているみたいだと堂嶋は思った。それに黙って口角を上げると、鹿野目は一層不思議そうな表情を浮かべた。コートの袖口からすっと指先を下ろして鹿野目の手を握ると、そこが吃驚するほど冷たくて思わず声を上げそうになる。外は堂嶋が思ったよりずっと寒いようだった。 「悟さん」 それで堂嶋が何を言いたいのか分かったらしい鹿野目は、堂嶋が掴んでいないほうの腕を上げて、堂嶋の頬を撫でた。同じくらい冷たい手のひらだった。思わず目を瞑ると、唇にキスが下りてくる。堂嶋はそれを目を瞑ったまま受け入れていた。 「珍しい、悟さんから誘ってくれるなんて」 「・・・そう?」 そんなことはないよと笑った声が、鹿野目の唇に吸い込まれる。そういえば亜子が初めて来た時はこんなことをしていた時だったが、今日はもうその心配はないだろう。彼女はここを訪れ、そして短いスカートを翻して帰って行ったのだから。堂嶋はそっと亜子が先刻まで座っていたガラスのテーブルの向こうを見やった。白いラグの毛並みが、人がそこに座った形跡をまだ残している。放っておけば鹿野目はそれに気が付くだろうか。不思議な思考回路をしている鹿野目は、鈍感なのか敏感なのか分からないところがある。考えながら、堂嶋はまだコートを着たままの鹿野目の肩に回した手に力を込めた。そうして亜子のことをひっそり考えている自分の後ろ暗い気持ちなど、鹿野目には伝わらない。絶対に、永遠に。だからこそ堂嶋は優越感でも覚えるみたいに、自分の体を掻き抱く鹿野目の肩越しに亜子の座っていたラグなどを見ている。 「外寒かったんだね、鹿野くん体冷たい」 「・・・すいません、離れたほうが良いですか」 いちいちそんなことを確かめるみたいに呟いて、鹿野目はその唇をまた堂嶋の首筋に埋める。その唇も頬ももう冷たくはなかったけれど、堂嶋はあえてそんなことを言った。それこそ鹿野目の中の何かを確かめるみたいに。堂嶋は鹿野目の色の抜けた髪の毛を撫でて笑った。 「いいよ、早く、ベッド行こう」 「・・・はい」 骨が軋むほどぎゅうぎゅう抱き締められてまだ、堂嶋は何か足りないと思った。何が足りないのか分からなかったけれど、鹿野目と自分の関係には圧倒的に何かを欠いているような気がした。それが亜子の話の後だったからかもしれないし、違うのかもしれない。鹿野目の頬にも目の上にも、もうその時の傷は残っていない。体も綺麗で切り傷ひとつない。そんな風に皮膚の表面の傷が癒えるみたいに、心についた傷も癒えることが出来ればいいのにと思った。鹿野目がやや乱暴にコートを脱いでフローリングの床に落とすのを、堂嶋は目で追いかけた。こんなことを何度しても傷を癒すことが出来ないどころか、もしかしたら昔の傷を抉ることになるのではないかと堂嶋は思った。思ったけれど、他にどうするべきなのか分からなかった。

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