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第22話

静かな部屋の中、ダブルベッドの左の端で鹿野目は死んだように目を瞑って眠っている。珍しく良く眠っていると、堂嶋はそれを隣で座ったまま眺めていた。久しぶりに何度もセックスをして、体はだるかったけれど、眠る気にはとてもなれなかった。もうこんなことをするのも最後かもしれないと思うと、少しでも離れていることが不安で、沢山しがみ付いて沢山名前を呼んだと思う。それを鹿野目がどう思ったのか分からなかったけれど、眠る直前まで鹿野目はいつもの様子に見えた。目を閉じると分かる長い睫毛も、しっかりしている喉仏も、色の薄い唇も全部全部、いつもより酷く愛おしく感じて、堂嶋はそこで座ってただ眠る鹿野目のことを、息を潜めてじっと眺めていた。どうしてそうなったのか分からない、どうしてそうだったのか分からない。理屈ではないのかもしれないし、堂嶋が考えることを放棄しているだけなのかもしれない。ただ気づいたらもうそうだっただけだ。そうやって鹿野目がそこに息づいていることが、それだけで愛おしくて切なかった。苦しい、吐くばっかりで吸えない堂嶋は慢性的に酸欠だ。だから視界も霞むし、良からぬ思考に捕らわれて息も出来ない。 (寝てると幼く見えてかわいいな、髪が濡れてる時もかわいい) (鹿野くん、俺だって君を可愛いと思うことはあるんだよ、君はそれを知らないだろうけど) 考えながら堂嶋はひとりでくすくすと笑った。真面目な顔をして悟さんはいつもかわいいと言った鹿野目に、聞かせてやりたいと思った。 (俺はこんな調子で、君とさよならできるのかな) 今すぐじゃなくていいと亜子が言ったのは多分、今すぐには離れられないことを知っていたからだろうか。鹿野目の恋人ではなくなっても、上司ではなくなることのできない堂嶋は、その後一体どんな顔をして事務所で顔を合わせて仕事をしなければならないのか、考えると身震いがした。また鹿野目が辞めると言い出すかもしれないが、辞めてくれほうが、堂嶋の精神衛生には幾らも役立つと勝手に思って、もうその背中を柴田に怒られたって追いかけることはしないだろうし、その権利こそ本当にもう堂嶋にはない。いつか離れるかもしれない、その時一体どうなるのだろうなんて、ここの扉を開けて怒鳴った時は考えなかった。考えたほうが良かったのかもしれないけれど、そんなことを考えていたら多分、自分はこの扉を開けたりはしていないはずだった。成り行きではじまった鹿野目との生活は思ったより穏やかで、吃驚することも確かにあったけれど、不思議と違和感はなかった。鹿野目の方が弱気になるのを笑って、多分鹿野目が上手く眠ることが出来ないこと以外、堂嶋の日常は穏やかに過ぎて行った。亜子にあんな話を聞かなければ、これからだって多分、そのまま緩々と進んでいっただろう。 (本質には触れないようにして、大事なことは話さないでおいたら) (俺たちはもっと上手くやっていけたんだろうか) 長く一緒に居たいなら話すべきと講釈を垂れた亜子の声が蘇ってきそうで怖かった。それに鹿野目がどう答えたのか、それがどう冷たく響いたのかを堂嶋は良く覚えている。それに震えて堂嶋は膝に乗せていた毛布を引き寄せた。鼻の奥がつんとする。 (俺はいつの間に) (君のことがこんなに) 悔しいけれど、さよならしなければいけなかった。亜子とそう約束したのだから。堂嶋は眠る鹿野目の額にいつも鹿野目がやるようにそっと近づいて、唇で触れた。そうやって触れる指がいつも優しいのを知っていた。でも時々、初めてこの部屋に足を踏み入れた時みたいに、後先考えないくらい強い気持ちをぶつけて欲しいなと欲張りのまま思っていたりして、弱気に目を伏せる鹿野目の繊細な心のうちなど、もしかしたらひとつも汲んでやれていなかったのかもしれない。俯いてあらぬことを呟きながら青くなっている鹿野目は、それはそれでかわいい気がしていたが、本当はもっとそういう声に耳を傾けてやらなければいけなかったのかもしれない。手を握って名前を呼んで、そうして安心させてやらなければならなかったのかもしれない。 (君は俺が思うよりずっと繊細にできているって知ってたのに) (ごめん) 眠る鹿野目の髪を梳いて、堂嶋は声に出さずにそうひとりごちた。すると今まで微動にしなかった鹿野目の眉がぴくりと動いて、もしかしたら起こしてしまったかなと思い、堂嶋が手を引っ込めると、鹿野目はそこで目を瞑ったままいつものようにうなされはじめた。 「・・・鹿野くん・・・!」 肩を掴んで揺さぶるが、鹿野目は目を開けない。八代の夢を見ているのねと呟いた亜子の冴え冴えとした白い頬が浮かんでくる。何でも知っているのよ呟いた、優越感で濡れた唇が浮かんでくる。堂嶋はうなされる鹿野目を目の前にして、また亜子のことを考えている自分を叱責した。毛布の上に放り出された鹿野目の手を握る。ぎゅうっと強く握って、堂嶋はそれを祈るみたいに額につけた。いつか鹿野目が自分の世界が他とは違って酷く狭く、優しかった両親の顔を歪める原因になってしまったことを己の罰として甘んじたことも。この後誰も自分の体を温めてはくれないだろうと思って理不尽な暴力にも耐えたことも、全部、鹿野目の中から追い出すことが出来ればいいのにと思った。そんなことにいつまでも縛られていて、もがけば首が締まるそんな場所で、満足に動くことも出来ずに苦しがることしかできないなんてあんまりだと思った。 (俺は神様なんかじゃない) (そんなことひとつ、君の中から追い出せないなんて) (俺は神様じゃない) 瞬きをすると溢れた涙がぼろっと頬の上を滑って、鹿野目の意識のない手を濡らした。するとふっとうなされていた鹿野目の低い声が聞こえなくなって、堂嶋はそっと目を開けた。鹿野目が額に汗を浮かべて、こちらを見ているのと目が合う。目が覚めたのだと、ぼんやり堂嶋は思った。 「・・・さとりさん?」 「よかった、目が覚めたんだね、鹿野くん」 「何で、泣いて」 「ごめん、君が、苦しそうだったから」 目頭に溜まった涙がまた頬を滑って、堂嶋は慌てて顔を擦った。鹿野目がゆっくり上半身を起こして、濡れた頬を指先で触る。相変わらず優しい指だなと思った。 「すいません、また俺」 「・・・君のせいじゃないだろう」 「寝室、分けますか。一緒に寝られないのは寂しいけど、悟さんを起こしたら悪いし、それに」 指がついっと堂嶋の頬を撫でて、それから頬を手のひらで包まれた。先刻まで眠っていた鹿野目の体温は珍しく高かった。 「悟さんが泣くのは嫌だ」 唇にキスが下りてきて、堂嶋は目を瞑った。鹿野目の体に手を回して痛いほど抱き締めてもっとぎゅっとしていたかったけれど、触れては離れる鹿野目の唇の感触だけを追いかけていたいような気もした。鹿野目をまさかひとりでなんて眠らせられなかった。それこそ何にも気が付けなくなるのに。でもその時堂嶋は鹿野目を振り払ってそう言うことも出来なかった。そうしてひとつひとつ溝ができたみたいにして、この部屋をいずれ出て行く準備をしなければならなかったから。

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