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序章1-3

 人の命はいつか終わりを遂げるもの。そんなことはわかりきっている。  しかしいざ消えてしまいそうな魂の灯火を目の前にしてしまうと、そう簡単に整理などつくはずもなく。  父が居なければこの心は、天涯孤独になってしまう。そんな恐怖も彼の中にはあった。 「お前がそんなに感傷的な顔をしてどうする」  切なそうに言われ、想悟は自身が難しい顔をしていことに気付いた。  蔵之助もまた、まるで表情を隠すように窓の外を見ていた。想悟はその視線の先を追う。  窓ガラス越しに、満開の桜の木があった。花びらが風にのって、ふわふわと散っていく。儚くも美しいと感じる光景だった。 「ご、ごめん。それにしても……綺麗だな」  想悟が率直な感想を口にすれば、蔵之助もこくりと頷いてくれる。 「毎年、こうして桜を見ると、いつも思い出すんだ。あの時も……麗華(れいか)と二人で花見をしようと約束していたんだ」 「そう……か。麗華さんらしいな……」  蔵之助は、若い頃に妻を亡くしている。  出産時に一人娘を残して亡くなってしまったらしいが、その時の愛娘を溺愛していたことを、想悟も時たま話を聞かされて知っていた。  その人がどれほど美しかったか、心の清い人間であったか、自分以上に誇り高い、素晴らしい精神を持つ令嬢であったか。  そして──父親と幸せに暮らしていたある日、忽然と姿をくらますという、事件なのか事故なのかさえも未だ誰にも解明できていないことに巻き込まれてしまった、どれほど哀れな女性か。  蔵之助が想悟を迎えたのは、そのぽっかりと空いた大きな穴を埋める為だったのかもしれない。  けれど、それだけの理由でここまで尽くしてくれるなど、常人にはきっとできない。  想悟は、写真でしか見たことのない麗華を、年の離れた姉のような存在として、彼女のことも父と同じくらいに慕っていた。 「ああ……昨晩、夢に出たよ……本当に、綺麗だった……あの頃と何も変わっていなかった……」  未だに失踪した娘の夢を見るなんて、どこまで純粋な人なのだろうのか。  胸が締め付けられると共に、そんな父の力になりたいと、想悟は改めて思った。 「俺の夢に出るということは、お前は死んでいるのか? と聞いたら、悲しそうに笑うんだよ。俺も早くお前の元に逝きたい、と言っても、ただただ、笑うんだよ。あいつは優しいから、俺に心配をかけたくないからって、必死に笑いながら、心では泣いているんだ」  初めはいよいよ頭がどうにかなってしまったのかとすら思える話だが、“麗華”の話をしている時の父があまりにも楽しそうで、想悟も彼女のことを聞くのは好きだった。  それに、麗華はそんな風に自己を犠牲にしてでも人を想う心を持っているという。  そういうところはやはり父と似ている。想悟もなんだか誇らしかった。 「……寂しいこと言うなよ。俺は父さんに、一日でも長く生きてほしい。もっと父さんと一緒にいたい。……麗華さんだってきっと、そう望んでいると思う」 「……想悟」  蔵之助が想悟の顔をまじまじと見た。  もう生気が薄れている、痛々しい蒼白の顔をした老人は、愛息子が握ってくれている手にほんのわずかに力がこもる。 「この長い人生、良いことも悪いこともたくさんあったよ。だが俺は、お前と家族になれて……本当に……幸せだった。お前は……麗華に似ている」  そう言って、蔵之助は想悟の頭を撫でた。  想悟が見てきた父の姿など、氷山の一角だ。想像もできないほどの苦労をしてきたに違いない。なのに息子にはそれを見せようとはしない。  彼が麗華を賞賛するように、彼もまた、どこまでも強くて優しい父の鑑。心の底から尊敬に値する人だった。  ──けれど、夢など都合の良いビジョンに過ぎない。父もいつも麗華のことを想っているが故に、たまたま見ただけだろう。  かく言う想悟も、彼女らしき人物を夢で見たことがある。それは確か父にその話を聞いた晩だったから、印象深かったのだろう。  雪のような白い肌と、手入れの行き届いた長いストレートの黒髪。すらりとした鼻筋と睫毛の長い黒目がちな瞳に、ぽってりと桃色に色付いた唇。  均整のとれた顔でお淑やかに笑う姿はまるで日本人形のようで、ともすれば壊れてしまいそうな儚さを持った女性。  写真の気位の高そうな不機嫌な顔よりも、ずっとずっと美しかった。  だからこそ、嬉しかった。尊敬する父の遺伝子を受け継ぐ人に似ていると言われて。  ──だが、想悟は全てを否定するつもりはないのだ。  何故なら、事実、現代の科学では説明のつかない現象を知っている。  それは生まれつきのもので、こうして、肌で触れて、神経を集中させる。  第六感というやつだろうか、周りの環境音や父の声にも混じらないそれが、想悟の身にはすうっと染み込んでくるように聞こえた。 (俺はお前を、本当の息子だと思っているよ)  ──想悟は、人の心を読むことのできる特別な人間であった。

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