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序章2-2
気ままな和真を教室に放り込んでからてきぱきと授業をこなし、お待ちかねの昼休みがやって来た。
気分転換に外で昼食を摂るのもいいかと想悟が中庭に出たところ、ベンチには見知った先客がいた。
真っ白なシャツの上に薄手のセーターを着て、下はジーパンといった非常にラフなスタイルであるが、仕事柄、授業で汚れやすいことを考えるとそれも妥当だろう。
職員室では想悟の向かいのデスクで仕事をする彼は、極端に言えば金持ちしか入れないこの学園では珍しい、一般庶民の出身の新任。
想悟と同い年の二十三歳になる若い美術教師で、名を一之瀬守 といった。
「一之瀬先生。お隣よろしいですか?」
スケッチに集中していたらしく、想悟に気付いた守は筆記用具をひっくり返しそうになった。
それほど驚かれるようなことでもないのだが、どうにも気弱で消極的な守は、こんな風にドジっぽいところもよく見受けられた。
「あ……すいません。守先生、と呼んでほしかったんでしたね」
同い年であるから、下の名前で呼んでいるが、それは何故だか守からそう呼べと指定されたのだった。
苗字があまり好きではないのか、そういうところは気にしないのかはわからないが、生徒達にも既にそうやって距離の近い教師と慕われている。
なら、問題はないのだろうと想悟も彼の思うままに呼んでいた。
「き、霧島先生。あれっ? 今日はここでお昼にするんですか?」
「ええ、たまには良いかなと思って。そうそう、購買のこのパン、本当に美味しいですよね」
「は、はい! オレもそう思います」
想悟がこれまた「たまには」という気持ちで買った惣菜パンを頬張りながら言うと、守は緊張しながらもくすりとはにかんだ。
大人しい彼に似合う、控えめで、穏やかな笑み。
鈍臭いところもあるが、癒し系とはこんな風な人間のことかもしれないと想悟は思った。
守の傍には、空の弁当箱がある。彼はもう食事を済ませたようだ。
「守先生は、お弁当でしたか」
「はい。少しでも節約したくて……。って、す、すみません、貧乏臭いことを……」
守が恥ずかしそうに笑う。進学で上京し、芸術大学を卒業した彼は、未だに学生気分が抜けていないような感じの、垢抜けない青年だった。
想悟は彼のスケッチブックに視線をやる。クリーム色の紙の上に本物そっくりに描かれていたのは、目の前の立派な銅像である。
守は鉛筆を動かす手を止めて、実在する人物に似せて建造されたその銅像をまじまじと見つめた。
「この方、明皇学園の創設者でもあったんですね。名前だけ存じ上げていたので調べてみたら、予想以上にたくさんの事業を手掛けていて……本当に素晴らしい功績を残された実業家なんだなぁって、オレ、なんだか感動しちゃいました」
「ええ。俺もそう思います。激動の時代を生き抜いた背景には、強い信念とカリスマ性があったのではないかと。ま、そうは言っても、家庭はあまり顧みなかったそうですがね、はは」
「そうなんですか? ふふ、霧島先生、この……霧島豪三郎さん? について、お詳しいんですね。って、先生はここの出身なんだから当たり前ですよね、すみません」
「あれ……えっと……まだ守先生には言ってませんでしたっけ。それ、俺の曽祖父なので」
「え……? と、いうことは……霧島先生って…………あ、あぁっ」
今になって、ようやく創設者の豪三郎と想悟が、同じ「霧島」の姓であると気付いた守。
霧島家の御曹司に何という口を利いていたのかと、恐れ多さに身が竦みそうになる。
本当は蔵之助と同じく、彼と想悟は血が繋がっていない赤の他人なのだが、わざわざ公言するようなことでもないし、それを知るのは霧島家のごく一部の人間だけだ。
「ごごごごめんなさい! お、オレっ、不勉強でっ、本当に失礼なことを……!」
「良いですよ。俺だってそんなにかしこまられても困りますしね。普通に話してください」
「は、はい……」
そうは言われても、という困り顔をしてしまう守。
莫大な富を持つ人間など近くにいた経験がない守は、いまいち現実味がせず、それこそこんな風に銅像が造られるほどの著名人など、メディアの中でしか知らなかった。
引っ込み思案が故に友人もそういない為、想悟のような人間とはどう接してよいかわからない、という気持ちが本音であった。
想悟はおろおろとする彼を安心させるように小さく笑ってみせた。
「話題を変えましょうか。そういえば守先生は、どうしてこの学園に?」
「そ、それは……オレ、たまたま展示会に来ていた学園長先生に、絵を気に入っていただけて……それで、将来の話をしていたら、うちの学園で働く気はないかと、お声までかけていただいたんです」
「それってつまり、守先生は学園長先生のコネ?」
「ああっ、いえっ、べ、別にオレはそんなつもりはっ」
「あはは。冗談ですよ、ちょっと意地悪な言い方でしたね。それは守先生の絵が、学園長先生の心に響くものだったってことでしょう? そういうのって、芸術家にとってすごく大事だと思いますよ」
「あ……そ、そう……なんですかね。……えへへ」
守は頭を掻いて素直に照れだした。大好きな趣味であり、仕事にもしていることを褒められるのは、誰だって嬉しいものだろう。
身体が弱く、そういう理由もあってか幼い頃から絵を描くことが好きだった守は、今もプロの画家を目指していた。
現実的に考えればいつ売れるともわからぬ生活はあまりにもハイリスクであるから、この学園で給料を貰いながら、細々と作品を発表していき、いつかは……といったささやかな夢を抱いていた。
絵に関する話をすると、守の温厚な垂れ目はキラキラと子供のように輝いた。
夢が叶った、と言うには未だ物足りないが、まだまだ未知の可能性を秘めている。
そんな守を、想悟も少しだけ自分と重ね、微笑ましく見ていた。
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