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序章2-3
一日の授業を終えて、心地の良い疲労感を覚えながら想悟は夕刻の廊下を歩く。
開け放たれた窓から入ってくる春の風が何とも風情があって気持ちがいい。
ついでに戸締りをしながら、改めてこの学園で生徒から教師となった現実を噛み締める。
けれど、想悟の平穏な時間は脆くも崩れ去ることになる。
「とーうっ!」
まるで小さな子供がヒーローごっこをしている時のような声が背後から聞こえたかと思うと、
「ぶほっ!?」
一人の男子生徒が、想悟の背に飛び付いて来た。
想悟は突然のことに驚いてバランスを崩し、その場で思いきりこけた。
何事かと起き上がった想悟の視界に真っ先に飛び込んできたのは、インテリらしさをあまり感じられない真っ赤なフレームの眼鏡と、くりりとしたつぶらな瞳、おまけに極上のスマイルだ。
高等科でこんな風にたちの悪いことをしでかすのは、一人しかいない。それもほぼ毎日のように繰り返す常習犯だ。
「凪、いきなり何するんだ。痛いだろうが。お前な、いい加減に……」
「えへへー。せんせー見つけたらね、身体が勝手にこうしちゃうんだ!」
何の反省もしていない彼は、大きな瞳を輝かせ、本当に声変わりをしたのかわからないくらい甲高い声で言う。
髪の毛が明後日の方向に癖がついてしまっているのは、天然パーマ故だろう。
顔だけでも幼かったが、加えて誠太郎は身長が百五十センチほどと、同年代の男子に比べかなり小さい。
体型も貧弱で、ぶかぶかの制服を着ている様は正に小学生のようだった。
想悟も初めは初等科の生徒が高等科に何の用があるのだろうと声をかけてしまい、機嫌を損ねた彼に地団駄を踏まれたことがある。
高等科一年の凪誠太郎 は、実年齢より幼く可愛らしい姿に、どこか弟のようなキャラクターもあいまって、どうにも甘やかしてしまいたくなる魅力があった。
実際、彼のわがままに付き合って苦労している人間は、教師にも多い。
だが、誠太郎には悪いが、想悟はそうはいかなかった。
蔵之助の教育方針もあるのだろうが、想悟はそれが例え小さな子供であろうが、悪いことをすればきっちり叱らなければならないと思っていた。
「凪……とりあえず離れろ」
「ふぇ……?」
想悟は深いため息をついてから、背中にしがみつく誠太郎の腕を取って、向かい合わせになる。対面して彼の愛想の良い顔面を諭すように見つめた。
すると、誠太郎は不思議そうな顔になる。
「せんせー……なんかこわい顔してる……? どうしたの?」
「俺は今、お前のせいですごく怒ってるんだ」
誠太郎は、相手の感情を察することができない人間だった。
ただの鈍感……と言えば聞こえは良いが、何故だか最初から察することを放棄しているとさえ思える部分があった。これでは協調性も何もあったものじゃない。
だから何事も恐れず、ストレートに言ってやる必要がある。
「ぼ、僕が、せんせーを怒らせちゃってるのっ?」
「そうだ。お前、今までそうやって皆にどれだけ迷惑かけたと思ってるんだ?」
「ぁう……せんせーに嫌われるのいやだ……ごめんなさいっ」
「謝るだけじゃ駄目だろうが。自分がどうして怒られてるのかわかってないだろ。お前のしてることは危険だし、俺も困ってるってちゃんと理解しろ。もしやられた奴が怪我でもしたらどう責任とるつもりだ?」
「そ、そんなことしないもん」
「してからじゃ遅いだろ? まったく、ああ言えばこう言う……」
言葉で責め立てれば、慣れないことに誠太郎はびっくりした様子で想悟を見上げている。
涙こそ溢れてはいないが、今にも泣きそうな顔だ。
「ねえせんせー僕のこと嫌いになっちゃった? ごめんねわざとじゃないのせんせーがいるって思ったら嬉しくなっちゃったのだって僕せんせーのことほんとにほんとに大好きなんだもん」
「……だったら、少しは聞き分けが良くなれないか?」
「うぅぅぅ……はい……もうしません……」
どうしてこんなにも気に入られてしまっているのか、想悟にはわからなかった。
それも、気に入っている、というのが、尊敬する教師へのそれではなく……要するに、恋愛感情に近いようなものなのだ。
何かそのような感情を抱くきっかけとなった出来事があったか、覚えはない。
普通に日常を送って、その中で、教師と生徒という垣根を越えぬ範囲で誠太郎と接していただけだ。
なのにどうしてこうなったのか……想悟にとっては極めて異常な事態だった。
けれど、人に好かれるのは決して嫌なことではない。
だから想悟も、彼の気持ちに見て見ぬ振りを決め込んでいた。きっと、一時の感情に違いないのだ。
──学生時代の自分のように。
「素直でよろしい。じゃあ、仲直りの指切りでもするか?」
「うん!」
想悟が小指を差し出すと、誠太郎は指を絡めて大きく手を振って指切りげんまんをした。
これを交わしたからと言って、彼の態度が急激に変わることはないだろうが、誠太郎はすぐに忘れてしまうから、これでもやらないよりは良かった。
誠太郎は満足げに笑って、ハイタッチしてきた。よくもここまで元気があるものだ、となんだか中年臭いことを思ってしまうが、誠太郎が相手ならば仕方がない。
「えっとね、それじゃあね、改めてお願いしていい? せんせー、おんぶー!」
「お、おんぶ?」
言うや否や、誠太郎は背中にギューッと抱き付いて、早く持ち上げろと言わんばかりに首を絞めてくる。
体つきに似合うように体重も恐ろしく軽い。平均的な体格の女子より小柄なくらいだ。
こうしておんぶや抱っこといった小さな子供のような我が儘を言われても、断わる前にできてしまうのだから嫌になる。
ぐっと力を込めて持ち上げ、想悟は困った生徒との散歩を始めた。
「ったく……俺は保父かっての」
「せんせーはせんせーだよ?」
「うるさいな。わかってるよ」
後ろ髪を引っ張ってくるところといい、本当に子供のような誠太郎だった。
呆れ笑いのようなため息をついて、とぼとぼ歩いていると、
「……って、おい! 誠太郎! 何やってんだよお前!?」
今度はあんぐりと口を開けた顔の和真。
誠太郎とは実家が近い幼なじみらしく、彼もまた、「いつものことながら」という顔をしていた。
その場に誠太郎を降ろしてやると、悪びれない彼に和真がずかずか歩み寄る。
「お前なぁ、今日はお前のお袋さんから俺んちで面倒見るように頼まれてるって言っただろ。ったく、想悟にまで迷惑かけてさぁ……」
和真がちらりと想悟を見やる。自分が日頃迷惑をかけているとは思っていないような顔だ。
想悟としては、お前が言うか、となんだか複雑である。
誠太郎の家族は医師一家という身のせいで多忙の者が多く、そういった理由でもよく財前家の世話になっていた。
「ほら、帰ろうぜ」
「うん! あっそうだ先輩、あのね、手繋いでくれる?」
「は、なんで。嫌だよ気色わりーな」
「やだやだ繋ぐー! 先輩が手繋いでくれないと僕帰らない! せんせーとずっと一緒にいる!」
「な、なんでそうなるんだよっ? はぁー……わかったよ、ほら、これでいいだろ」
彼も我が儘が過ぎるが、誠太郎といる時はなんだか兄のような表情である。
兄弟のいない想悟には、なんだか微笑ましいような、疎ましいような……難しい心情だった。
背の高い和真と低い誠太郎が手を繋いで並ぶと、それこそ年の離れた兄弟に見える。一学年しか離れているとは思えない。
こう言ってはなんだが、誠太郎に振り回された直後の想悟は、和真が迎えに来てくれてホッとしていた。
「さよなら、財前、凪。また明日な」
「うんせんせーばいばーい!」
「……じゃーなー」
しかし、なんだかんだと言って手の掛かる可愛い生徒達を、想悟は片手を上げて見送った。
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