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序章3-1
日直の学級日誌を読んで、コメントを書き、それから、順次配布するプリント等を作る。一見単調でいて、様々なところで配慮が必要な複雑な作業。
高等科で世界史を教えるようになって早一ヶ月。
自分の為に使える時間というものは少なくはなったが、教師とは本当にやり甲斐のある職業だと想悟は実感した。
ふと壁掛け時計を見ると、定時の時間が近付いており、一息つこうと席を立つ。
すると、「失礼します」と可愛らしい少女の声がして、ガラッと扉が開いた。
「えっ? 想悟お兄ちゃん!?」
入って来たのは、初等科の制服を着た少女だった。
名前を呼ばれ、想悟は一瞬、誰だったかと記憶を辿ったが、二つに結ったお下げ髪とそのしっかり者の愛らしい表情に面影があった。
新堂の愛娘、綾乃 だった。
新堂は、前理事長であった西條清彦のいとこにあたる名門の出だ。
その関係で霧島家とも親交があったのだが、想悟の大学進学を期に、しばし疎遠のようになっていた。
想悟と新堂親子、特に綾乃は想悟が学生の頃ぶりの再会だっただけに、成長した少女の笑顔を見た想悟は疲れが吹き飛んで、ぱっと表情を明るくさせる。
「おお? 久しぶりだな、綾乃ちゃん」
「うわぁっ! 本当に想悟お兄ちゃんだ! パパから聞いていたけど、会えて嬉しいなっ!」
「ああ、俺もだよ。元気そうで何よりだ」
「うん! あのねっ、今日はねパパとこれからデートのお約束してるんだっ。待ち切れなくて迎えに来ちゃった」
「あ、綾乃。外食に行くだけだろう……」
愛娘が迎えに来てくれたことに気付いてこちらに寄って来た新堂が、慌ててそう付け足した。
まだ父親に好意を抱く年頃の彼女のことだ、デートと言いたいものだろう。それか、単純にそうしてからかっているか。どちらも間違いではなさそうだ。
新堂の照れた表情は珍しいが、頑固者の教頭も、どうにも一人娘には弱いのだ。
蔵之助が想悟に対してそうであるように、親とは皆、そういうものだろう。
自らの“本当の両親”はそうではなかったが……と、頭の片隅でやましい思いが浮かんだが、想悟は軽く首を横に振って、愛想のいい笑顔をつくることで醜い感情を紛らわせた。
このように仲睦まじい親子に嫉妬してどうするのか。どうしようもないじゃないか。
また一つ、自責が生まれた。
「じゃあ、早くパパのお仕事を終わらせてやらないとな。ほら、ここに座ってちょっと待っててもらえるか?」
「え? いいの?」
「もちろん。新堂先生、とっとと戸締りしちゃいましょう」
「あ、ああ……」
しかし、そんな想悟の姿を見て、新堂も良い教え子を持ったものだと誇らしげに笑った。
想悟は綾乃を自分の席に座らせると、帰り支度を始めた新堂の傍に寄っていって、小声で言う。
「綾乃ちゃん、大きくなりましたね」
「ああ。もう六年生になる。本当はもう少し子供らしくしてくれていても良いくらいだが……あんなことがあってはな」
愛娘の訪問に顔を綻ばせていた新堂の表情に、少しだけ影が差した。
俯き加減のその顔には、まだ癒えぬ悲しみを背負っていた。
今から三年前、新堂は綾乃の母親、つまり当時の妻と別れていた。
親が強く勧めた縁談であったから、どうにも性格があまり一致しなかった……とこぼしていた新堂だが、お互いに、大人の都合で大切な娘に寂しい思いをさせてしまうことになるのは、心苦しかったそうだ。
完璧主義の新堂もそのような大きな失敗をし、今ではシングルファーザーだなんて、と想悟も意外に思ったものだ。
そしてそんな矢先、西條家が長男の失踪をきっかけに一家心中したのだ。泣きっ面に蜂とは正にこのことだ。
一時は一生を添い遂げようと誓った者と別れ、本当の兄弟のように慕っていた親戚さえも亡くした新堂と綾乃、どちらも辛く悲しい出来事だった。
けれどもこの親子は、慣れないことの連続に苦悩しながらも、互いを支え合って、逞しく生きている。
「……新堂先生も、本当にご苦労なさいましたね」
「いや。私のことはいいんだ。それより、私は綾乃の方が気がかりだ。周りに余計な心配をさせまいと気丈に振る舞ってはいるが、無理をしていることは一目瞭然だろう。だから、たまにはこうやって外食にでも行って息抜きをさせてやろうと思ってな」
「でも、新堂先生も、きちんとガス抜きはしないといけませんよ。ストレスで白髪が増えたらシャレにならないですからね」
「な、なんだとっ!? どこだ!?」
「いや、ちょっと、まだ見当たらないので大丈夫ですって」
冗談が通じない堅物教師に、想悟は変わらないな、と安心感を覚えた。
不器用故に、若い者の反発を買うことも多いが、教育には人の倍以上に情熱を注ぐ。
新堂のそういうところが、想悟はこの男の生徒であった頃から好きだった。
優秀で、しかし自身を抑圧しているような、どこかミステリアスな雰囲気を纏う想悟にも、気兼ねなく接してくれた元担任教師。
今でこそ気持ちは薄れてしまったが、それでも。
新堂に、男としての情愛の類いを感じていたことがあったのは、紛れもない事実だった。
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