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序章6-1

 目が覚めたら、全て夢だったら良かったのに。  期待すればするほど虚しくなることをわかっていながら、淡い希望を持ってしまうのだから自分で自分が嫌になる。  ゆっくりと瞼を開けた想悟の視界には、一面に広がる血のような赤。  ────ああ、現実だ。  ────悪夢のような現実が始まってしまった。  ベッドの上で寝たまま、想悟はどこか冷静にそう思った。  ノックの音がして、ハッと扉の方に顔を向ける。  入って来たのは、昨日と変わらず穏やかな笑みを湛えた鷲尾だった。 「よく眠れましたか?」  この一夜でやつれた顔を見ればわかるだろう、白々しい男だ。そう思った想悟は何も答えない。 「ほら、いつまでも寝ていないで起きてくださらないと。学園をずる休みする気ですか?」  そうか、もう朝だったか──鷲尾に毛布を剥ぎ取られながら、想悟は考える。  こんな異常な環境にあっても、明皇学園という変わらない存在があることは想悟にとって救いだった。  ひとまずは、見知った日常へ帰ることができる。それだけで安堵した。 「おやおや、汗でびっしょりではありませんか。夢見でも悪かったのでしょうか?」 「…………」 「シャワーを浴びて行かれてはいかがですか。お風邪でも召されたら大変ですから…………って、ああ、これは失礼。あなた様ともあろうお方にそのような心配は無用でしたね。特殊能力をお持ちの方はどうにも丈夫なようですから」 「お前……本当に俺に言うことを聞いて欲しいなら……少し黙ってろ」  鷲尾は胡散臭い笑顔はそのままに、わざとらしく指を動かして口端を引き結んだ。  お口にチャック、といったところだ。あまりにも馬鹿にした態度に、寝起きの頭も冴えていく。  それに鷲尾は、当事者である想悟でもよくわかっていないこの能力のことを、どこまで知っているのか。  風邪の一つも引いたことのない健康的な……悪く言えば怪我や病気をした人の辛さを欠片もわからない、人間味のない自分の身体。  ──俺は本当に正常なのだろうか? 想悟は確かめるように拳を握り締めた。  鷲尾に言われるままシャワーを浴びると、少しだけ状況がわかってきた。  昨夜の出来事はやはりどう足掻いても変えられない事実であること、司が目の前で死んでしまったこと。  あの地獄の光景がフラッシュバックして、想悟はひとりでに溢れる涙を、頭からシャワーを被ることで紛らわせようとした。  司の血の生温かさが消えない。鉄の臭いが取れない。洗っても洗っても、もう平和だった昨日には二度と戻れない。  溢れて止まらない雫をぐっと堪えながら鏡を見れば、一夜にして寿命のすり減ったような醜い顔が映る。  消えかけてはいるものの、両腕に残った縄の痕も気になった。昨夜、きつく縛られたせいだ。まだ冬服の時期で助かったと思った。  脱衣所には、まったくこのクラブの人間はどこから用意してくるのだか、想悟にぴったりのサイズの着替え──それも想悟が普段から学園に着て行くのと同じものが一式──が置いてあった。  黒のスーツに、真っ白なYシャツと春空のような青のネクタイというお気に入りの仕事着であったが、今はその爽やかな色合いすら皮肉に思える。  その後、一応荷物も確認してみたが、荒らされることなくそのままだった。やはり金品が目的ということではないらしい。  朝食も勧められたが、それはさすがに遠慮した。  こんな不気味な場所で出される食事なんて何が入っているかわかったものではないし、例え何もなくとも素直に美味しいとは思えないだろう。  早くここから離れたくて、外に向かおうとすると、鷲尾に引き止められる。  鷲尾はいいと言うに想悟の跳ねた髪を直し、ネクタイも締め直すお節介ぶりだ。何故そんなにも上機嫌なのか、全く想像がつかない。 「……お前は何者なんだ?」 「…………」 「…………チッ。俺が話しかけたら喋っていいよ」  なんて面倒臭い奴なのかと、ほとほと呆れた。子供以下の態度である鷲尾に心底ムカムカしてたまらない。  それがこの男の常套手段なのだろう。  わざと相手を煽って、逆上させ、ボロを出させる──屑のやりそうなことだ、と想悟は眉をひそめる。 「何者、とは? 俺の役割ですか? それとも人間性について?」 「両方だ」 「うーん。俺はただ、俺のしたいように動いているだけです」  このクラブの人間から真面目な返答が返ってくると思った方が間違いだった。  想悟は大きくため息を吐きながら、学園へ向かう為、鷲尾に外へ通じる道を案内してもらうこととなった。

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