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序章8-2

「……遡れば、この学園で不幸が起こるようになったのは、杉下先生が亡くなってからだ。清彦が一家心中したのも。生徒の失踪が相次いだのも。挙げ句の果てに、あんなに素晴らしい教師の鑑のような人だった神嶽先生まで……。三年経ったとはいえ、教師も生徒も、保護者だって……皆、まだ傷が癒えていないんだ。何があったのかは知らんが、頼むから勝手な思い込みで不安を煽るようなことを言うのはやめてくれ」  新堂の言うことも一理あった。  今では、お調子者の誰かが彼らの話を用いると、辺りがシンとしてしまうほどだ。皆はそれだけ一連の事件の核を知ることを恐れていた。  杉下前学園長の呪いなどと言う者もいるが、そういった類いのものだって、考えすぎれば心身症に陥りかねない。あながち馬鹿にできたものではないのだ。  だが、神嶽は絶対に死んではいないという確信が、何故だか想悟にはあった。  それは同じ能力を持つ者だからこそわかること。  病気をすることも、怪我をすることもない身を持った者が、そう簡単にくたばるだろうかと考えてしまったのだ。  どんな外見をし、どんな人間として人生を歩んでいるのかはわからないが、今もきっとどこかでのうのうと生きている。  あるいは、既にどこかで監視しているのかもしれない──。  春の緩やかな風が頬を撫でただけであるというのに、ふと誰かの視線を感じたかのような錯覚に陥って、想悟はぞくぞくと悪寒が走った。 「……すみませんでした。お手間を取らせた上に、変なこと言ったりして」 「いや……いいんだ。このところ、お前はどうも疲れているようだからな。やはり新しいことばかりでまだまだ不安なんだろう。心配事があれば、学生時代のように、なんでも相談してくれていいからな」 「……はい。ありがとうございます」   彼の労わるような言葉を聞けて、想悟は少し安堵した。  新堂は優しく、五年前、想悟がこの学園で生徒側であった頃と何一つ変わらなかった。  だから、彼の心の声を聞けば、もっと安心できると思ってしまった。  ここのところ、父以外には鷲尾などという得体の知れない男の心しか聞いていない。  どす黒くて、重々しくて、こちらまで浸食されそうなあの男。  想悟は新堂に、癒しを求めたかった。  彼に気付かれないよう、そっとジャケットの裾に触れる。この身で触れさえしていれば、それだけでも聞こえるのだ。  わずかに眉間に皺を寄せて、精神を集中させる。  すると、特別な感覚器官から、彼の思考が染み込んでくるように聞こえてきた。 (……そうだ。霧島は、本当に立派な可愛い生徒だ。仕方ない。今日は綾乃が熱を出してしまったから、あまり用を作らずに早く帰ろうと思っていたんだが……)  新堂から聞こえてきたのは、想悟が求めたものではなかった。  元生徒の話に付き合うよりも、愛娘との限られた時間を優先したい父親としての心の声だった。 「……今日は、綾乃ちゃんの為に早く帰らなければならないんですか」 「ん? それは、そう……だが……何故知って……?」 「あ、あれ。新堂先生、自分で言ってませんでしたっけ」  咄嗟に誤魔化しながらも、想悟は自分の口から出る言葉に棘があることに気付いた。  学生時代のほろ苦い思い出が蘇ってくる。  新堂は想悟がまだ高等科一年の頃からの担任教師だった。  勉強のことから、霧島と新堂家という名家の出として、私生活でも交流があり、たびたび世話になったものだ。  その中で、想悟は新堂に教育者としての憧れを抱いた。自身が教師を志したのも、彼の影響は大きい。  そして、そんな憧れの教育者である新堂のことを、人として、男として意識するようになっていったのも、そう時間は掛からなかった。  だが、ひょんなことから彼への思いは薄れていくことになってしまった。  それも、今のように、新堂が想悟よりも愛娘を取ったからだった。  新堂は、教育者よりも父親としての自分を選んだ。  それは教育者という存在を尊大に思っていた想悟にとって、ショッキングな出来事だった。  唯一、心の清い人間だと思っていたのに。見捨てられたような気がした。  いつしか、彼もまた皆と同じ、体裁ばかりを気にして生きている裏切り者として見てしまうようになった。  子供じみた思考とはわかっていつつも、一度抱いてしまった不信感はそう簡単に拭えることはない。 「俺……迷惑だったんですね」 「…………霧島。お前……何を言っているんだ」 「いいえ。ともかく、綾乃ちゃんに寂しい思いをさせるのはよくありませんね。本当にすみませんでした。彼女の為にも、俺のことなんて気にせず早く帰ってあげてください」  もう新堂の顔を見たくなくて、想悟は彼が何か言い返してくる前にこの場から去ろうと踵を返した。  だが、新堂は速足で歩く想悟を追いかけて、その腕を掴んだ。 「霧島。お前、本当にどうしたんだ。お前らしくないぞ」  新堂は、何かまずいことを言ってしまったのかというような、申し訳のなさそうな顔をしている。  同時に、いつもの調子とは違う元教え子を、訝しむような顔。  ここで心を読んだところで、気持ち悪いとでも言われるんだろう──そう思った想悟は、読心することなく新堂の顔を真っ直ぐに見つめた。 「俺は最初からこうですよ……新堂先生」  新堂に向けた笑顔は、自分でも酷いと思うほどに、己が心をさらけ出した自然な笑みだった。

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