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序章11-2

 ビルから出て、想悟は和真と二人きり、休憩所のベンチに腰を下ろした。  担任を持ってまだ一ヶ月であるが、未だかつてこんなにも不安そうな和真の顔を見たことがあっただろうか、と思うほどに、和真はその表情に暗い影を落としていた。 「それで。どうしてあんなことをしたんだ?」  想悟が聞くと、和真はブルブルと震え、泣きだしてしまった。ずっと泣くのを我慢していたのだろう。  想悟が黙ってその背中をさすってやると、和真は背を丸め、苦しそうに嗚咽した。  ひとしきり泣いて、腫らせた目元をシャツの袖で拭いながら、和真はゆっくりと事の真相を吐露し始めた。  和真の両親は、双方の知名度もさることながら、その熱々ぶりから、芸能界一のおしどり夫婦としても有名である。  しかし、家庭ではその関係は完全に冷え切っていた。つまりは、仮面夫婦だったのだ。  それが本当なら、学園での親馬鹿ぶりも全て学園関係者やマスメディア向けの演技だったのかと思うと、想悟はよくもそこまで徹底できるものかと薄ら寒くなる。  たった一人の息子である和真の前でも喧嘩が絶えない上に、それぞれ浮気までしているという酷い生活にも関わらず、これまで世を欺き続けてきた。  だが、和真が高等科に上がった頃から、もう和真もそれほど手の掛からない年頃になったとして、遂に離婚の話が出た。  和真は二人に別れてはほしくなかった。ただ、自分が幼い頃のようにまた両親に仲良くなってほしかった。  そうでなければ、自身の生まれた意味だって、わからなくなってしまう気がする。  そこまで仲が悪い二人の間に生まれた自分は、いらない子だと言われているようなものだ。  そんな生活が、和真はもう耐えられなかった。  けれど、いつからだったか、和真が何か失敗をしたり、悪戯をしたりすると、両親は「仕方がない」と言って、いったんは機嫌を直してくれたのだ。  そうやって、和真は両親の仲が険悪になるたび、突拍子もない言動をしては、騙し騙し、これまで生きてきた。  そう言われてみれば、和真の変にふざけたような態度も納得できると想悟は思った。  だが、そんな風に大人の気を引くことしか考えられないなど、子供のやることだ、とも感じた。  今までの些細なものから比べると、今回の件は立派な犯罪行為である。周囲にかける迷惑だって馬鹿にならない。 「警察沙汰になんてなれば、お前は両親の顔に泥を塗ることになる。それをマスコミが放っておくと思うか? そんなことになったら、夫婦仲は……さらに悪化するだけだと思う」 「そっ……そんなこと!」 「お前を心配して、離婚どころじゃないと思い直してくれるとでも?」 「…………」 「……お前って、いつも目先のことしか考えてないんだな」 「……だ、って……それじゃあ、俺はどうしたら……っ」  また泣きそうになる和真。  そんな和真を、想悟は疎ましく思った。  確かに彼の家庭環境は酷い。大切な子供をこのように泣かせる親など許せないと、同情できる部分は大いにある。  だが、和真だって、そうした現状をわかっていながら今までずっと目を背けていたのではないか。  血の繋がった両親がいることを当たり前に思って、時にはぶつかることから逃げてきたのではないか。  自分は違うのに。  自分は、どうして俺を捨てたんだと真正面から文句をつけることすらできないのに。 「甘ったれるな!」  気付くと想悟は、感情のままに生徒を怒鳴りつけていた。 「お前はっ……お前は、俺と違って文句を言える両親がいるじゃないか!? 俺はっ、どんなに憎んだってもう会えないのに……っ!」 「え…………?」  叱られた和真はビクンッと身を震わせ、おずおずと想悟の顔を覗き見る。 「想悟は……いない、のか……?」  ハッとして口を噤む。本当の両親どころか、霧島家と血が繋がっていないことすら、生徒はおろか、ごく親しい者以外には話したことはない。 「こ、こんなこと、言う気じゃ……あぁ……悪い……今日はどうにも、虫の居所が悪いんだ……忘れてくれ」  生徒に当たるなんて、どちらが子供かわからないと、冷静な気持ちもある。だが、どうにも今日はそれだけで済みそうにない。  あまりにも多くのものを失った一夜から、想悟の心は荒れに荒れている。  そこに和真の自分勝手とも言える理由を聞き、平常心を失っていた。  しかしながら、当の和真は目をぱちくりとさせて驚いていた。 「……こっちこそ、ごめん。なんか、俺……今のあんたの言葉で、目が覚めた」  和真は目を伏せ、くすりと笑った。  それはいつものように友人達と馬鹿騒ぎをしている彼のそれとも違う、ぶっきらぼうだが、柔らかな笑み。 「正直さ、今……ちょっと感動したよ。あんたはいつだって俺と向き合ってくれる。本気で俺のこと想って、叱ってくれる。こんな、ドラマみたいな熱血教師が本当にいるんだな……ってさ、へへ」  照れ隠しだろうか、こちらを見ようとはしないが、地に視線を落として口元を綻ばせている。 「ありがとな、想悟。俺……想悟がいなかったら、大変なことしちまうところだったよな。……あんたが担任で、ホント良かったよ」  そこで想悟は、心のもやもやを少しだけ自覚した気がした。  自分が教師になりたかった最大の理由は……先生、先生と呼ばれることで、優越感を得たかった、なんていう不純な動機だったのかもしれない。  家に帰れば想悟お坊っちゃまと呼ばれる生活。抑圧していた劣等感。  想悟はいつだって無意識のうちに人の上に君臨してきた。だからこれからもそうでなくてはならなかった。  クラブの言うことを聞かざるを得ないのは、父に手出しをさせない為もあるが、それ以上に──単純な理由。  自身の保身と、醜い破壊願望を発散する為だ。 「……買い被りすぎた。俺はきっと、お前が思うような教師じゃない」 「な、なに言ってんだよ。人がせっかく褒めてやったのにさ。……あーあ、やっぱり想悟って頭の固いオッサンだぜ」  だってそうだろう。  こんなにも手のかかる可愛い教え子を、凌辱しようとしている。  想悟が受けたような暴虐など欠片も想像もしない清い身を、自尊心を、ズタズタに引き裂いてやろうしているのだ。  優しい言葉などかけないでほしい。いっそ全てを否定してくれたら、こんな自分と決別できるやもしれない。  縋るように和真の肌に触れる。 (俺……やっと俺のことを理解してくれる教師と出会えたのかな)  なのにどうして現実はうまくいかないのだろう。  想悟の中で、張り詰めていた糸がプツリと切れるかのような音が響いた。

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