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凪誠太郎編BAD-2 ※IF

 事件が起きたのは、翌日のことだった。 「先生! 大変なんです、早く来てください!」  昼食の時間、何人かの生徒達が血相を変えて職員室に飛び込んで来たと思うと、教頭や想悟達なども含めた教職員を全て校庭に集めた。  校庭どころかそこに繋がる渡り廊下までもが、騒然としていた。まさかこの学園で大変な事件が起こるなんて……そんな風に皆昼食の存在も忘れ、生徒のあるいは叫び、あるいは涙を浮かべながら崩れ落ち、阿鼻叫喚の様子だった。  想悟が生徒達を押しのけて注目の的となっている人物を確認すると──。 「誠太郎……!?」  屋上のフェンスを乗り越えて、あと数歩でも進めば落ちる。そんな距離に彼はいた。  誠太郎の軽くて小さな身体は、風ですらバランスを崩せば吹き飛んでしまいそうな儚ささえあるのだから、目の前で繰り広げられる生死の境に心臓の音がうるさくてたまらない。  誠太郎はすぅっと大きく息を吸うと、大声で己の要求を叫んだ。 「霧島せんせーを呼んで! 早く! そうしないと僕……本気で飛び降りるからっ!!」 「っ……!」 「な、な、凪! 自分が何をしているのかわかっているのか!? 話ならいくらでも聞くから、今すぐそこから戻りなさい!」 「いや……待ってください新堂先生。俺が行きます」  新堂や他の教員達もついて来ようとはしたものの、彼の要求はあくまで想悟だ。とにかく想悟だけ屋上に上がり、残された教職員達は地上から説得に回ることにしたようだ。  急いで屋上の階段を上がると、フェンス越しではあるが誠太郎は今にも飛び降りると言う生徒とは思えない笑顔を見せた。 「せんせー! 来てくれたんだっ」 「お、お前っ! こ、こんな場所で何やってるんだよ!?」  とにかく止めなくては。それはあくまで教師である自分なのか、彼と深く関わった自分がした行動なのか。苦戦しながらもフェンスを乗り越え誠太郎と向き合った。 「僕、せんせーのこと本当に好き。それは今も変わらないよ。でも、せんせーは僕のこと、もう嫌なんだよね。ほんとは……顔も見たくないくらい嫌いになっちゃったんだよね」 「それだけで……こんなことをしたのか!? 俺がっ、悪かったって謝れば、やめるのかよ!?」 「ううん。せんせーはなんにも悪くないよ。……いつかせんせーに嫌われる時が来るかもしれないっていうのは、僕なりにずっと考えてたんだ。だから、未練もない。ただ一つだけ……一つだけでいいの。最期のお願いを聞いて」 「お、おい……最期って、なんだよ……馬鹿な真似はやめろ……」  声が震える。本心ではわかっている。彼の本気を。 (せんせーに信じてほしい……でもせんせーが信じなくても、僕は全然大丈夫。だってせんせーと一緒にいる時間は、本当に今までで一番しあわせだったから) 「僕がせんせーのことを死ぬほど好きなんだって、覚悟を……見ていてください」  ほんの少しだけ、彼が見たことのない影のある表情をした。 「ごめんね……一人で死ねって言われたのに、せんせーを巻き込んで。僕、やっぱりせんせーに嫌われて当然のわがままだ」  その次の刹那──。 「誠太郎おおおおおおおおおッ!!」  誠太郎は、まるで天使のように柔らかい笑みを浮かべながら、自ら背中から飛び降りた。咄嗟に伸ばした手は擦りもしなかった。  真っ逆さまに落ちていく姿に、地上にいた者達も喉が枯れんばかりに絶叫する。  想悟も誠太郎の安否を確認しようとしたが、彼は飛び降りたものの、真下に学園を象徴する大きな樹木や色とりどりの草花があったせいかそれがクッションとなって衝撃を和らげ、なんとか弱いながらも呼吸はしていた。  さすがの想悟も身体が竦み、手足を動かすどころか声を出すこともできない。目の前で起きたことが嘘か真かすら、夢うつつだった。  俺は誠太郎の気持ちをそこまで踏みにじっていた? あいつになら何をしても、何を言っても、結局また持ち前の明るさで元に戻るんだとばかり思い込んでしまっている自分がいた。  性奴隷契約をしたくらいなんだから、飼うのが面倒臭くなればペットのように捨てるなり、クラブという施設に預ければそれでお役御免だと……。  何を言ってる。どんな不憫な扱いをしたとしても、相手は人間だ。完全にコントロールはできないんだ。俺はなんてことをしたんだ。  呆然と目を見開いて真下で倒れている誠太郎。彼を象徴する個性的な赤いフレームの眼鏡は粉々に砕けている。一歩間違えば、正にあのように大量に血を流して、全身の骨も折れて死んでいたかもしれない。  呼吸が荒くなる。自らが招いた最悪の結末に思わず胃酸が込み上げ、必死で飲み込む。  それを現実に引き戻したのは、新堂の一声だった。 「きゅ、救急車を! 早く!!」  慌てて他の教員が通報したが、搬送先で医師に告げられたのは、運良く一命だけは取り止めたものの、意識が戻るのはいつになるか全くわからないとのことだった。  もう明皇などに不妊治療に苦しんだ末に産んだ愛しい一人息子を預けてなんていられない。誠太郎の家族は当然、真っ先に自身達の勤務先である病院に彼を転院させることにした。そこなら両親や祖父である院長の目が届き、どこよりも安全だ。  そして間接的にではあるが、想悟は誠太郎を助けられなかった。それどころかこのような大怪我をさせてしまった原因を作ったのだ。  想悟ももう明皇には居られない……というより、二人の関係は表立って説明できるものではなく、どんな言い訳を考えようにもかえって心証を悪くするのみで、周りの目からしても居づらい。たまらず世良に退職届を渡して学園を去った。  しかし……誠太郎は、最後まで……想悟を責めなかった。どうして。あそこまで追い込まれていたなら、「本当は嫌だったのに」とか、「せんせーが悪いんだ」とか罵詈雑言を吐いてから自殺を図るものではないのか。  わからない。こんな状態になってしまっても、彼のことは……全くわからない。  想悟と共に面会に来ていた鷲尾は、花瓶の花を手入れをしながら、ベッドで眠る誠太郎をあまり見ることもできない彼に向かい、 「あなたのしてきたことの末路をよくご覧になりなさい」  と口元を吊り上げて皮肉った。 「……理由なんてない。彼はただ、あなたに無償の愛情を感じていただけ。たったそれだけなのですよ」 「そんな……そんな人間いる訳ないじゃないか! こいつは赤の他人なんだぞ!」 「では何故その他人の霧島蔵之助はあなたをここまで愛し、育て上げたのでしょう。……この広い世の中、そういう器の広い人間もいるということですよ。何ともお美しいことにね」 「う……」  無償の愛情なんて理解できないどころか鼻で笑っていそうな鷲尾に真面目に言われると、確かにそうだと感じてしまう。  父の愛情は本物で、誠太郎は違う? それはどうなのか。家族じゃないから、今までたくさんの人間に裏切られてきたから、そんな言い訳を胸に誠太郎を最後まで信じられなかったのは自分じゃないのか。 「なんで……こんなことを……俺は……俺は止められたはずなのにっ……!」  誠太郎……誠太郎……あんなに、俺を好きだって、どれだけ酷いことをされようが何の文句も言わずに受け入れてくれて──本当にごめん。その言葉はもう、彼に届くことはないかもしれないけれど。  蔵之助への尊敬と慈愛。新堂への恋心。植物状態となった誠太郎を目にしたこの感情。  いつもいつも、自分の手からこぼれ落ちないと改めて大切さに気付けない。ずっと一緒にいるのが当たり前だなんて子供でもわかるような幻想を抱いていた大馬鹿野郎は俺だ。  それなら、想悟にもできることはある。彼や周りに拒否されるかもしれない。蔵之助の容体だって心配だ。でも、自分がやらなくちゃ他に誰がやる。 「鷲尾……もう面会には付き添わなくていいよ。クラブと俺とは関係がなくなっちまったからな」 「……そうですね。残念ながら。ま、それでもこれからもし、やはりクラブに頼りたい時は何なりと」  相変わらずの煽るような鷲尾の言葉にも、強い意志を抱いた今の想悟にはあまり耳に残らなかった。クラブにまた頼るなんてありえない話だ。  想悟は、これからはたった一人の人間の為に生きることにしたのだから。

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