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終章-2

 想悟はゴクリと固唾を呑み込んで、口を開く。 「あんたが……神嶽……修介」 「そんな名前を名乗っていたこともあったな」  対する神嶽は、一切の感情を顔に出さない。  怪訝に神嶽を見つめる想悟の瞳を捉え、笑う訳でもなく、怒る訳でもなく。ただただ、じぃっと値踏みをするかのような薄ら寒い視線を向けている。  そうか、こいつが……こいつなら……あのクラブの頂点に立ち、絶大な信頼を得ていても不思議ではない。  どんな人間かとずっと想像だけを膨らませる毎日だったのに、彼を前にすると、その決して何事にも物怖じすることもないだろう態度に納得してしまった。 「……どうして、今になって俺の前に現れたんだ」 「お前に会う必要性ができたから、では理由にならんか」 「この期に及んでそんな冗談はやめてくれ」 「ほう、そうか。残念だな。俺としてはお前とは二十三年ぶりの再会なのだがな」 「え……? あんた……俺とどこかで会ってる、のか……?」  もし出会っていたとしても、二十三年前ではまだ想悟が産まれたばかりの頃だろう。覚えている訳がない。  それにそんなことを言ってくる割には、神嶽は感傷に浸るようでもなかった。 「まあお前との出会いなどつまらんことはどうでもいい。俺はお前に、責任を持ってこれを渡しに来たんだ」  そう言うと、神嶽は懐から封筒を取り出した。それには、宛先を霧島想悟、差し出人に霧島蔵之助と書かれていた。  死後の相続の為に、しっかりと遺言状は作成してくれていた蔵之助だが、こんな個人的そうな手紙の存在など知らない。 「な、なんで父さんがこんなものを……あんたに? 俺に届けてくれって、直接言われたのか? あんたは生前の父さんに会ったのか?」  思わず質問責めにしてしまうが、神嶽は一切答えずに今ここで読め、とでも言うように顎をしゃくった。  不信感を拭いきれずも、想悟は封筒から数枚の便箋を取り出すと、視線を落として目を通し始めた。 『親愛なる我が息子へ』  蔵之助の手紙は、そんな照れ臭い書き出しから始まった。 『お前がこれを読んでいる頃、俺はもうこの世にはいないだろう。 だから最期に、お前にずっと言えなかったことをここに記す。 これまであまり話してこなかったが……麗華とお前のことについてだ。 生まれて間もなく霧島の門前に捨てられていたお前を一目見た瞬間、何故だか俺はお前を自分の子供にしたいと、この子だけは俺が生涯をかけて守ってやらねばならんと強く感じた。 妻と娘を失った哀れな老人への、天からの贈り物かとも思ったさ。 周りの反対を押し切ってでもお前を養子としたことは、今でも正解であったと確信している。 なにせお前を抱き上げた時、生まれたばかりの麗華を初めて抱いた際の記憶と感動が鮮明に蘇ってきたからだ。 麗華はな、お前と同じで、生まれつき感受性の強い人間だったのだと思う。 他人の気持ちをよく汲み取ることができ、気が利いて、情に厚く、そうして常に自分を殺してでも周りのことばかり考えて生きていた。 ただ……あまりの慈悲深さを気味悪がられ、周りからひどい嫌がらせを受けたこともあった。そのたびに彼女は傷付き、だが俺に心配をかけまいと気丈に振る舞っていた。 時たま、気位の高い我が儘な娘にも見えるほどにな。可哀想に、あれでは生きづらかっただろう。 初めは俺も、麗華の性格がそうなったのは共感能力がずば抜けて高いせいかと思っていた。 ただ、それにしては彼女は、何事も核心をピタリと言い当てるのだ。 こんなことを言うのは自分らしくもないし、馬鹿らしいとも考えたが……俺は、麗華には何か不思議な力があるのだと直感した。 思い起こせば、妻も麗華も俺にはもったいのない神々しささえ感じるような女性だったからな。そういうところに、俺は惹かれたんだ。 そしてそれは、お前を育てていく中でも、至るところで妙に同じ気持ちになった。 想悟、お前は正に麗華の生き写しなのだ。 俺に黙っていたが、お前もきっと麗華と同じような力があったのではないか? 例えるなら人の想いを悟ることができる──正しくそんな力だ。 お前を想悟と名付けた者も、きっとそれをわかっていたのかもしれんな。 麗華が俺の前から姿を消してから、全力をあげて調べ尽くしたが……今となってはもう何もかも、生きているのかどうかすら、わからない。 だが、想悟。俺は、お前が紛れもなく霧島家の血を引いていると信じている。 お前を、どこかで霧島家に帰りたいと願った麗華が遺してくれた、大きな希望だと信じている。 お前といた二十三年間、一度だって苦しみや悲しみを感じたことがないほど幸せな時間だった。 お前と出会えて、本当に良かった。 だからもうこの老いぼれに悔いはない。お前は今まで通り、自分の意志を大切に、好きなように生きなさい。 想悟。お前はまだ若い。 これからのお前の長い人生が、実りあるものになることを願っている。 霧島蔵之助』  愛用の万年筆を使って書いたのだろう、よく見慣れた蔵之助本人のものだと胸を張ってわかる筆跡と、不器用な彼の朴訥とした文面。  手紙を最後まで読み終えた想悟は、葬儀でもこんな風にはならなかったのに、身体を震わせ激しく嗚咽していた。  せっかくの手紙がくしゃくしゃになってしまうほど両手に力が入っているのに、脚にはうまく力が入らずその場に膝から崩れ落ち、ボタボタと大粒の涙が溢れ落ちてはインクを滲ませていた。

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