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第20話

 二十年という長い月日は、生徒第一を生活の全てに捧げていた教師だった俺を五十五歳のくたびれた中年親父へと変貌させた。  今でもたまに彼のことを思い出す。  生きているのなら三十五歳。俺があの村へ来た歳と同じ。  真白を逃がしてから、自分でもどうやって逃げたのかは混乱していたせいもあり、あの村の出来事についてしばらく断片的な記憶だった。  後に医師からも、相当な精神的ショックがあったせいだろうと診断された。  背後から聞こえてくる恐ろしい声からとにかく遠くへ……そうして草木を掻き分けて行くうち誤って崖の下に落ちた。  身体がふわりと浮いた瞬間は、さすがに死を感じた。  しかし落ちた先はあの眺めのいい海だった。  岩場であれば確実にどこかをぶつけて死んでいた、生き長らえていても村人に何をされていたかわからない。  夜の海は十分に寒く、凍えそうだった。ただ、がむしゃらに泳いだ。  絶対考えたくないけれど、もし真白がもう捕まってしまっていたら、あの村の真実を伝え継ぐのは自分しかいない。  諦めてたまるか。死んでたまるか。そんな激情の最中で、いつしか意識を失っていたようだ。  翌日、運良く遠くの人気のある岩場に流れ着いていた俺を介抱していたのは、地元の駐在だった。  彼は口数少なかったが、俺に起きた惨事を悟っていたのか、「大変な目に遭ったな」と労ってくれた。  警察としても、あの村のことは昔から目の上の瘤のような扱いらしい。  真白のことも聞きたかったが……聞けなかった。  その時の俺は最悪のことばかりが頭を支配して。  もし俺だけが生き残ったらと考えると、今すぐにでもまた海に出てせっかく助かった命を無駄にしそうだったから。  駐在所内では、あそこで体験したことは口外無用とだけ忠告を受けて、電話を貸してくれた。  そして真っ先に家族と連絡をとった。身体を壊して教師を続けられそうにない、ほんのしばらくでいいから実家に帰っていいか。そんな内容だったと思う。  けど、母は俺の声を聞くなり、 『そんなことより、あんたが赴任したっていう学校の方がね、局所的大雨で海も荒れに荒れたのよ。土砂が崩れたり、波にさらわれたりして、死者もたくさん出たって……。だから父ちゃんとあたしとばあちゃんでね、ニュースを見るたび泣いてたのよ。無事で良かった、本当に良かった……』  母はもうそれ以上言葉を発することができないようで、ずっと咽び泣いていた。  普段はよぼよぼと腰を曲げて歩く婆ちゃんが、会話にならない母の代わりに受話器を取った。 「婆ちゃん!? 婆ちゃんか!」 『……この季節にあの場所で自然災害なんてありゃせんよ』 「そ、それって、どういう……?」 『どういうことかは、もうあんたがよく知ってるでしょ』 「…………」 『帰って来な。ずっと居てくれていいんだよ。お前はうちの大事な子』  その後は、もちろん村を去った。  あの村で見たこと、聞いたことは、未だ誰にも言っていない。  言ったところでオカルトの類いだと鼻で笑われるだけだろうし、あんなおぞましいことは話したくはない。  婆ちゃんだけは、あの村のことを知っているのか、それならばどこまでなのか、最後まではぐらかしながらこの世を去ったけれど。  そういえば、たまたま目にした過去の新聞記事で、あの辺りで海難事故に遭ったと見られる行方不明の夫婦がいたと知った。  苗字は「日向」……真白の両親、だと信じたい。  臨月の妊婦を連れてわざわざあのような村に出向くなど考えられないし、事故が事実なら、一度は村人に救助されて、回復するまで村の世話になっていた。  それか、俺のように理由があって少しの間暮らしていたのかもしれない。  村の異常性に気付くまでは、だ。  それから真白が生まれて……何らかの方法で二人とも殺された。それが一番納得できる。  できることなら数え切れないほどの御霊が彷徨っているかもしれないあの村を供養したいが……現実はそう思うだけ。二度と近付きもしたくない。  あの場所の埋め立て計画も時たま耳にするが……どうすることが良いのやら。  ただ、近くを通ると言うお坊さんには、念仏の一つでも、とはお願いしている。  そういった因習も耳にしたことはあるのか、理由は聞いてこないことだけは救いだ。

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