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第35話「恋人」
(わからない、、)
廊下を走る足は、だんだんと速度を失っていく。
「ハアッ、、ハアッ、、」
階段を降り切ったところで一度止まり、後ろから藤崎が追いかけて来ていない事を確認してから息を整える。
「はあっ、、」
止めていた足を再び動かし始めても、藤崎の気配はなかった。それにすら少しイラつきながら、早足で自分の教室へと戻っていく。
ガラッと引き戸を開けて教室に足を踏み入れると、入山の近くに座っていた片岡が椅子をガタガタ言わせながら立ち上がった。
「佐藤くん!」
片岡の声に、義人はハッと我に返る。
教室の真ん中辺りの席を取っているのは片岡、入山、他のクラスメイト2人。その内、入山と目が合った。
「、、、」
「あれ、ど、どうかしたの?」
片岡の問いにそちらを向けば、不安そうな顔が見える。義人は力の入っていた肩から脱力し、いつもの班員達の存在に大きく安堵した。ここなら藤崎が追いついて来ても、自分に何か言ってくる事はない。人目があるのだ。
夢から現実に戻って来たような、変な感覚がしていた。
「ん、、いや、別に」
「藤崎くんは?」
「っ、、購買、寄ってから、来るって」
嘘をついた。
それでも今は、藤崎と言う名前からも存在からも逃げてしまいたかった。まだバクバクとうるさい心臓が先程までの2人きりの教室を思い出させ、義人は表情を歪めて下を向いた。
考えたくもない。
ほとんど覚えていないくらい必死に藤崎から逃げて来たのだ。
「片岡」
「ん?なに?」
「ごめん。勉強さ、明日とかでも、いいかな?」
「うん。全然いいよ。こっちこそごめんね」
「いや、、ごめん、じゃあ、明日」
そう言って、机の上に置いていた自分のリュックを持ち上げる。その後ろの席に置いてある藤崎の鞄を一瞬見つめ、またすぐに視線を逸らした。
「私もかーえろ!」
「え?あ、」
ガタン、と音を立てて入山が勢いよく席から立ち上がる。窓を閉めていた片岡が驚いてそちらを向いた。
「じゃあね、ももこ!」
「え!?」
「川端も田中もサラバ!悪いがももこを頼んだ!」
「え?」
「ちょ、いりちゃん!」
何か言いかけた片岡を振り切って、入山が義人の隣に並び、有無を言わさず腕を掴んで教室の後ろのドアまで引っ張っていく。
「誰か最後にここ閉めといてね〜!じゃあまた明日ー!」
「ちょ、入山危ないから」
片岡も同じ方向に帰る筈だが、追いついてこようとする前にパタンとドアを閉じる。目の前はすぐに下りの階段で、先にドアから義人を押し出した入山がその後も背中をバシバシ叩いて降り進む事を急かしてくる。
「行くぞー!」
「待て待て待て!」
入山に背中を押され、義人はバタつきながらも急いで階段を下る。地面に着地すると、ふう、と息をついて振り返った。
「危ないだろ!」
「いいから急いでよ、自転車屋のところまで」
やっと落ち着けると思いきや、義人の背中をまたドン、と入山が押し始める。何が何だか分からない義人はとにかく入山の指示に従い足を急がせた。
彼自身、早く大学から離れたかったのだ。
「、、、よし、ここまで来ればいいか」
藤崎と片岡を振り切ったと踏んだ入山は、予定通り最寄駅と大学のちょうど中間辺りに位置している古い自転車屋の前で少し息を上げながら止まる。
「、、、」
「はあーーー」
そして、黙り込んでいる義人を見て聞こえるようにため息をついた。
義人は入山の方を振り返りながら、その後ろから誰も来ていない事をもう一度確かめる。
「なに。藤崎くんに、とうとう告白されたの?」
「えッッ!?」
あまりにも唐突に言い当てられ、義人の肩は飛んでいきそうな程にビクッと揺れた。
「その反応は、されたんだね、、」
素直過ぎる反応に「分かりやすいなあ」と呆れた声が聞こえる。半笑いの状態の入山はすぐに真剣な表情に戻ると、義人の肩を叩いて駅までゆっくり歩こうと促す。
「い、いや、違う、あの」
あたふたしながら反論しようと姿勢を整えたが、入山は聞く耳持たずポン、と背中を叩いて来た。
「誤魔化さんでいい。こないだ、ちょっと藤崎くんとその事で話した身でもあるし」
「え?」
隣に並んだ入山は、何処か大人びた表情をしている。静かな声はいつもより低く、酔ったら暴走する彼女の特性など微塵も感じられない冷静さを持っていた。
「告白、されたんでしょ?」
「、、うん」
義人はカリ、と首をかいた。何だかむず痒い話題に耐え切れず、入山から視線を外して歩いているコンクリートの道路を眺める。自転車屋の前はよく分からない金属のパーツがパラパラと落ちていて、それを避けながら歩いた。
「でも多分、からかわれたんだと、思う。気の迷いとか、、ふざけてんだよあいつ」
湧き上がってくる否定や下手な期待を胸の内に収め、グッと堪える。
義人には信じられなかったのだ。
誰かが自分を好きになる事。藤崎が義人を好きになる事。
『佐藤くんが好きです』
あの真剣な目も、声も、きっと全て嘘だと思った。そしてそれが悲しくて仕方ない事も自分では分かっている。
「、、、」
認めるわけにはいかないのだけれど。
「付き合わないの?」
「あ、たりまえだろ!?男同士で付き合える訳ない、」
「付き合えるよ、なに言ってるの」
「はあ!?変だろ!?と言うか、俺と藤崎だよ?絶対あり得ない」
義人は自分の胸が痛むのも無視して完全に否定し、ハハ、と軽く笑ってみせる。
入山はそれを見ながら呆れたように「ふーん」と息をついた。
「その割には、すごく悩んでない?」
「ッ、いや、悩んでねえよ」
義人の言葉の詰まり具合に入山は淡々と攻めることに決める。
「それに、この間といいなんといい。前々から結構気になってるように見えたけど?」
「え?」
立ち止まった義人に合わせ彼女も立ち止まる。睨むように凄みのある目がこちらを強く見上げた。
「佐藤くんも、藤崎くんを好きなように見えてたよって話」
「ち、違う!!」
苦しい。
入山からも逃げなくては、と拳を握る。けれどスッと力が抜けた。
頭は混乱したままなのだ。自分の中に抱えていた迷いや感情、最近あった数々の出来事ですらパンパンになっていたのに、その上、藤崎に関わるごとに心臓が苦しくなっていく。
義人はもう限界だった。
「、、違う筈なんだよ」
駅まではまだ道のりがある。自転車屋はとっくに通り過ぎている。
余計な力を抜き、義人はポツポツと溢れ出す言葉を入山に語っていく。
自分の気持ち、藤崎の気持ち、周りの噂。どれもこれもが訳が分からなくなっていて、ひとりでは処理し切れなくなっているのだ。
「苦しくて、」
「、、うん」
彼女は何か察したように、義人と向き合って立っている。ゆっくり話す彼を急かすでもなく、責めるでもなく、ただ穏やかな声で相槌を打ってくれた。
「最近アイツのこと考えんのが、嫌で、、なのにアイツ、すげえ近寄ってくるし、、告白、されるし。でも、好きな人いるって言ってたし」
「その好きな人が、佐藤くんてだけでしょ」
「いや、だって、男同士だぞ!?おかしいだろ、絶対、おかしい」
グ、と俯いた。その事実が頭に浮かぶたび、義人の胸は張り裂けそうになっていた。
「、、あのさ」
視線を上げて見つめた入山は、困ったような笑顔をしていた。少し寂しそうにも見える。
「私の彼氏も、前は男の人と付き合ってたんだ」
初めて聞いたその事実に、義人は目を丸くする。
どこかで犬の鳴く声が聞こえて、パトカーのサイレンの音もする。今いる道のひとつ向こうの通りは、車の絶えない大通りだった。
「、、男の人が好きってこと?」
「んー、前はそうで、今はバイセクシャルに近いのかな」
「バイ、、?」
そういった言葉に疎く、首を傾げた。
入山は寂しそうに笑ったまま話し始める。
2人はそばに立っている街灯の灯りに照らされながらお互いを見つめていた。
ときどき風がお互いの前髪を揺らしていく。今まで触れた事のなかった部分を曝け出し合い、2人は真剣に相手の話を聞いている。
「バイセクシャル。男も女も恋愛対象ってこと」
「えっ、」
こんな話を誰かときちんとする事自体、義人は初めてだった。藤崎とも、入山とも、今までした事のない話題でも自然と話が進む。
止まっていた。いや、自分から止めていた義人の恋愛観が少しずつ周りの情報を受け入れ、解析し、それを蓄えていっている。
「元は女の子にしか興味なかったんだけど、高校1年のときに歳上の男の人と関係持っちゃって、ズルズル沼にハマって、抜け出せなくなったんだけど、その歳上の人は既婚者でね。まあ、遊ばれた訳だ」
新しい感覚が入ってくる事は、彼には少し怖く、けれど見てみなければならない現実だった。
自分に確実に欠けているものを補う為の、進化する為の過程になる大切なもののように思えた。
「たった4ヶ月で高校生が知らなくてもいいような事教えられて、ずっぽりハマって、4ヶ月経った瞬間突然捨てられて連絡取れなくなったの。たまたま共通の知り合いがいたから事情話したら既婚者って教えられて、めーーっちゃ傷ついて、いっとき不登校ぎみになったりした」
「そう言う事も、、あるんだ」
ドッと胸が重くなる。自分と藤崎を重ねるように考えている。
「付き合うまでそこから1年と半年かかった。どれだけ頑張っても、向こうはまた男の人を好きになるの。忘れられないって言うの、その人のこと」
もしかしたらこの話は、入山にとって早く忘れたい過去なのではないかと思った。
寂しく、傷ついた彼女の表情に魅入って、同じように胸が辛くなっていく。
「女の人は、、、私はダメなんだって」
男同士を義人が否定するように、男女の恋愛を拒絶する人間もこの世には存在している。
失恋は、男女だけのものではない。
「、、それで?」
「告白した」
「え?!」
「あはは!顔やばい!」
先程までの表情はどこへやら、入山は活発そうな笑顔で笑い、義人を困惑させる。
「断られたよ、もちろんね!」
「は!?」
「そこからねー、まあ、アイツもアイツで、友達関係やめたいとかは言わない人だから。なんとか落としてやろうって、奮闘して、やっと付き合えて、今はちゃんと、好きだって思ってくれてる」
「あ、ああ」
そこまで言って、
「だから!」
「わあ!?」
バン!と、両肩に手が乗せられる。
あまりの衝撃に大声を出した。
「正直、藤崎くんに迫られてる佐藤くんを見て、アイツとかぶって。佐藤くんを傷つけられたくないと思って。アンタも大事な友達だからね。だから、藤崎に遊びならやめろって言ったの」
見開いた目に映る。入山の真剣な顔。
夜はどんどん深くなっていく。飲み屋帰りの数人が、義人達の横をこちらをジロジロ見ながら通り過ぎて行く。
「そしたらね、キレられた」
「は!?」
「本気だったらいいだろって」
「!!」
胸の内の、決壊しないように抑えていた何かが壊れていく。失くしたくなかった、重たくてキツい、作り上げられた自分自身を縛るもの。
「だから、本気なんだよ、藤崎くん」
ニコ、と暖かい笑み。
ジンジンと耳の後ろが熱く、心臓はまた騒ぎ出していた。
「藤崎くんは、本気で、佐藤くんのこと好きなんだよ」
「、、、本気、で」
「それに美大だよ?男と女しかダメ、とか。そんな型に収まらなくなって、周りはいくらでも受け入れてくれるよ」
世間体なんて、周りの反応なんて気にしなくていい。その言葉に胸のつかえは段々と消えて、身体から力が抜けて行く。
空は月が差し、明るい夜となっていた。
「もう一回考えたら?」
「、、、」
「なーんもなしに。男同士とか、将来とか無視して、そう言うのなしで考えて。藤崎くんと付き合いたいかそうじゃないか」
「何も、、なしで、」
「うん」
いつの間にか足は進んで、駅の手前まで来ていた。改札を抜けて行く人、抜けて来る人の波はまばらだったが、帰りのラッシュの時間になっている。
入山は改札の手前で振り返り、階段の2段上から義人を見下ろした。
「今本気で向き合わなきゃいけないことって、きっとあるよ、佐藤くん」
ちょうど乗る方向の電車が、ホームに入ってくる。
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