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第40話「キス」

  「あ、降ってきてた」 急いで窓を開け、洗濯物を取り込んで濡れ具合を確かめる。Tシャツの右肩が少し湿った程度で、あとのものはほぼ無事だった。 「ちょっと湿気たな」 重みが増したような気のする洗濯物達を、仕方なく風呂場の方へ持っていく。室内用の干し竿はここにしかないので、一時的にここに干しておこうと浴室のドアを開けた。 ピンポーン 「ん?」 マンション2階の自分の部屋に鳴り響く玄関のチャイムの音。妹か幼馴染みかと思ったが、失恋パーティーなら昨日散々やられた筈だった。 「、、通販頼んだっけ?」 いや、たまに両親から勝手に送られてくる食材を届けに誰か来たのかもしれない。そう思って藤崎は風呂場から出ると、洗濯物を一旦ソファの上に置き、少し急いで玄関へ向かう。 ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン 「うわ、うるさっ」 出ないと分かると途端にチャイムが連打される。近所迷惑にもその音は藤崎の部屋の玄関に延々と響いている。駆け足でドアまでたどり着くと、ガチャンガチャンとチェーンとロックを外し、誰とも確認せずにドアを前へ押し開けた。 「はい!!」 少し腹の立った声で開けると同時に相手を威嚇する。 連日いい事がないな、と眉間に皺を寄せた藤崎が、右手でドアを押したまま、左手はドア横の壁につき、目の前の人間を見つめて目を見開いた。 「、、佐藤くん」 ドアを開けたそこにいたのは、会いたくて堪らなかった義人だった。 降ってきた雨に当たり、大学で見たときと同じパーカーは雨粒を吸い込んで色が変わっている。 息を切らせて肩を上下しながら、ずぶ濡れの格好で彼は立っていた。 「え、何してんの?!こんなに濡れて!!」 そう言いながら急いでドアを開き切り、左手で彼に触れようとする。 「風邪引くだろ普通に!!」 とにかく、中に入れてしまおう。そう思って玄関から出ようとした瞬間、逆に義人がこちらへ足を進めた。 「え、」 「ッんの、馬鹿たれッ!!」 剣幕を引っさげたまま玄関に侵入してくる。離したドアは勝手に閉まって、そのまま、靴を履いていないと思って廊下まで下がろうとした藤崎は胸ぐらを掴まれる。 「佐藤く、」 「ふざけんなッ!!」 ドッ、ダンッ!! 「いッ、、!」 突き倒された先の廊下に思い切り身体を落としてぶつける。その上に義人が馬乗りになり、胸ぐらを掴まれ、グッと上を向かされた。 「佐藤くん、、?」 濡れ切った髪からパタパタと水滴が落ちてくる。見上げた先の彼の顔は眉間に皺が寄り、歯を食いしばって歪んだ表情をしていた。 「ど、したの、、何で、」 「お前の、、!」 「え?」 前髪も濡れ、顔に張り付いていた。パタ、とまた藤崎の頬に水滴が落ちてくる。けれどそれは、ほのかに暖かい感触がした。 「、、何で、泣いてるの?」 分からなかった。 義人は泣いているだろうか。 藤崎の胸ぐらは服に皺がよるくらい握り上げられていて、掴んでいる義人の手はフルフルと震えている。 すぐそこにある顔は、怒りとも、なんとも言えない表情でこちらを見下ろし、ただ切なそうに瞳の黒色が揺れるばかりだった。 「佐藤くん」 「お前の、せいでッ、、」 「、、うん」 床についていた手を伸ばし、義人の頬に触れる。ピタッと張り付いた前髪を払い、長いまつ毛に縁取られた瞳がより良く見えるように退かしていく。 「お前のせいで、」 「うん」 冷たい頬が切なくて、藤崎は目を細める。 「お前のせいで、、男なんか」 「うん」 「男なんか好きになって、、ッ、、すげえ苦しいんだよ!」 怒鳴りつけるように言われた。 潤んだ綺麗な目がギュッと閉じられて、ぼろぼろと大粒の涙が溢れ出す。 「性格悪いし、身長ないとか、名前のこととか、バカにしてくるし!!大っ嫌いだったんだよ!俺は、お前が!!」 苛立ちと愛しさが混ざった感情は義人を揺さぶり、彼自身が今、自分が何を言っているのかすらよく分からなくなっている。 それ程に必死に、藤崎に全てを見せていた。 「むかつくし、顔はいいし、モテるし、うざいし!!でも、、、いっぱい、俺のこと、考えてくれて」 「うん」 「だから、、だ、だから、、」 う、と。嗚咽を巻き込みながら、彼が泣いている。呼吸ができないのか、苦しそうに動く喉と荒く膨らんでは萎む胸を見て、藤崎はグッと身体を起こして義人に身を寄せる。 「あ、、っ」 座ったまま、太ももの上に跨がっている彼の腰へ腕を回し、今度こそ逃げられないように強く抱き寄せ、途端に身体を引こうとする義人を見上げた。 「もう逃げないで」 ふわ、と藤崎の使っている柔軟剤の香りが義人の鼻をかすめていく。 その言葉に逃げようとした身体は動きを止められた。 「ふ、ふじ、んっ」 一瞬何が起きたのか理解できなかった。 義人は頭をフル回転させて、何をしにきたのか、何をされているのかを思い出していく。 「んっ」 「佐藤くん」 「や、やめ、何してんのお前っ!!」 大学から駅まで走っている最中にとにかく腹が立ってきた。 義人が色んな事で苦しんでいる最中にも、藤崎は義人を手に入れる為に様々な事をしていたと気が付いたのだ。 初めての教室でわざと隣に座り嫌味を言われた事も、名前を馬鹿にされた事も童貞かと聞かれた事も、全部義人は覚えていた。 藤崎の家についたら、とにかく一発殴ってやろう。 そう意気込んで、最寄駅からここまでくる間に歯を食いしばってギリギリと鳴らし、すれ違う人達には「ヤバいやつだ」と言う目で見られながら走った。 勘も外れて雨が降り出し、ビショ濡れになった身体は流石に寒かった。 あれも、これも、それも、全て藤崎のせいのような気がして義人は怒っていた。 最大にムカついていたのは、自分が藤崎を好きだと気が付いてしまった事だった。 (こんな顔で迫られて、期待させられたら、ちゃらくてヘラヘラしてても、格好いいって絆されるに決まってる) アパートに乗り込んで顔を見たら、尚更だった。 そんな格好いい顔で、ずぶ濡れである事を怒るくらいに心配されたら、そこまで自分の事を考えてくれたら、誰だって好きになるだろう。 (そうだ、全部、こいつのせいだ) 殴りたかった。 知りたくなかった。 「恋」がこんなに苦しい事も、「好き」がこんなに切ない事も、誰かと想い合える事が、例えそれが同性相手だったとしても、抗えない程幸せな事も。 気がつけば起き上がっていた藤崎に、抱きしめられながらキスをされた。 「佐藤くん」 「なんだよ、やめろって!」 「口、開けてて」 「は、、?」 鼻先が触れ合いそうな距離で喋って、そのまままた唇が重なる。どういう意味か理解できなかった藤崎の発言に、ぽかんと口を開けたまま義人はキスをされ、途端に口の中に生暖かいものが入ってきた。 「ん、うッ!?」 久々に味わうその感覚は、他の誰とも比べようのないものだった。 「ぁ、、、んっ!」 胸元を握っていた手が緩み、すがるように藤崎のTシャツを引っ張る。息ができない。あまりにも気持ち良くて、頭がまともに回らない。 「ん、、佐藤くん、舌出して、しゃぶりたい」 「は!?なにっん、んんっ」 再び入り込んできた藤崎の舌が義人の舌に当たる。ビクビクと腰を跳ねさせながら、言われた通りに興味本位で差し出した舌を、本当にしゃぶられた。 「ふ、、んんっ、んんっ!」 吸い上げられ、こねられてを繰り返すと酸素の足りなさやしている行為の恥ずかしさで段々と寒かった身体の体温が上がっていく。 その感覚に、ぞわぞわと背中が粟立っていった。 (き、気持ち、い、、) 藤崎とのキスが、気持ちいい。 その場に響く水音が、鼓膜から脳に伝わりビクビクと体を麻痺させている。絡まる舌が解ける度に切なくなって藤崎に擦り寄った。 (なに、これ、、やば、!) 「んぅ、、んんッ!」 息が出来ない。 苦しい、と藤崎の胸板を叩くが、それでも執拗に口内を犯されて、体を支えていた足ががくがくと震えて、耐え切れず藤崎の太ももの上に乗っかった。 「っん、ハアッハアッ、、藤崎、、ハアッ」 やっと唇が離れると酸素が肺まで周るよう、肩を大きく上下させながら義人が呼吸する。 「佐藤くん」 「はあ、、はあ、、ん、?」 俯いていた視線を、見上げてくる藤崎に合わせる。ごく、と唾を飲み込み、やっと呼吸が落ち着いてきていた。 「佐藤くん、ごめん」 「なに、、ぁ、だめ、!」 その視線はまた義人を誘惑していた。欲情しきった茶色の瞳が「まだ欲しい」とこちらを見ている。 「や、やだ、って」 「もっとしたい」 真っ直ぐ見上げられてそう言われる。力が抜けそうになっている体は、腰をガッチリと抱きしめられていた。 完全に逃げられない。そして、何を怒っていたのかももう思い出せない。 (ああ、もう、ダメだ) 逃げたくもないし、義人自身が藤崎を逃がす気もない。 「も、、好きに、していいよ」 「本当に?」 するりと脇腹あたりを撫でながら、左手が上へのぼってくる。藤崎の肩を掴んでいた手がブル、と震えた。 誰かと共有するこの甘ったるい時間が苦手な筈だった義人は、驚く程自分がそれに酔っている事にまだ気が付いていない。 「もう一回言って」 「何をだよ」 誰も見た事がない藤崎の顔を、今自分だけが見ているのだと気が付いていない。 気が付いているのは藤崎の方だった。 自分がこんなに情けなく誰かを求める事があるのだと、溺れて息ができないくらい切なく誰かを想えるのだと初めて知った。 「俺のことが好きだって言って」 言葉なんていらなかったのに、義人の何もかもが欲しい。 「ッ、、何で」 「じゃないと、キスできない」 恥じらってイラついた表情で藤崎を睨んだ。どうして何度も言わなければならないのか、とまた悪態をつこうとしたが、それよりもキスがしたくなった。義人は我慢できるでもなく、藤崎から視線を外して廊下の壁の巾木を睨む。 「、、藤崎が、好きだ」 「うん、ありがとう」 すりすりと左の頬骨の辺りを撫でられ、恥ずかしくて拗ねたように藤崎へ向き直る。そうしてまた、唇同士が近づいた。 「佐藤くん」 その声で呼ばれるのが、永遠に自分だけであったならどれだけ幸せだろう、と義人は考えた。 何もかもを見せてもきっと藤崎は自分から離れない。ひとつひとつを見せる度、きっと自分は足踏みをするし怖くて立ち止まる事もあるだろう。 けれどその度に手を強く握って、一緒に行こう、と言ってくれる人ができた。 「、、なに」 気持ちいい。 キスが、こんなに気持ちいいって知らなかった。 重なったそれから伝わってくる体温が、こんなに愛しいって知らなかった。 「俺も好きだよ」 だからもう一回、キスをしよう。

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