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【8】ピヨたん潜入す……④

「これも治療の一環なんですね。恋人として歌を歌うという」 『治療……か』 「え?」 「いや、なんでもない。歌ってくれ」  陽向は心を込めてラブソングを歌った。  陽向は声変りを機に児童劇団を辞めてしまったが、歌うことと踊ることは今でも大好きだ。その頃は何度かミュージカルの主役を務めたことがあった。テクニックはともかく笑顔とダンスのキレが素晴らしいといつも褒められた。自己表現の手段が体を使うことでよかったと思う。 「どうですか?」 『ああ……ピヨたんの清らかな声……二番も歌ってくれ』 「二番? 分かりました」  あれ、こんな人だったかなと苦笑しながら、お互い出会った頃とずいぶん違う印象を抱くようになったなと実感する。周防は相変わらず、大声で笑ったり取り乱したりはしないが、そのテンションの上下は全て理解できた。周防は意外にも感情豊かな男だ。傍にいるとその揺らぎを強く感じる。繊細で思いやりがあって、温かくて優しい。  陽向はそれまで人の判断基準に優しさを一番に持ってくることはなかった。  誰かを優しいと思う時、勘違いしそうになることがあるからだ。  優しいは自分にとっての都合がいい――。  それは絶対にはき違えてはいけない部分だ。  いい人のことを「どうでもいい人」や「都合のいい人」と解釈することはギリギリ許されるかもしれないが、向けられた親切心を自分の道具にしてはいけない。陽向はいつも向けられた優しさに対して誠実でいたいと思っていた。  祖母は優しい人間だった。明るく朗らかで、誰に対しても公平で、人の気持ちに寄り添うことができる人だった。大切なことを遊びの中で陽向に教えてくれた。だから陽向も人に優しくしたかった。相手に求めなくても自分だけでも、そうでありたかった。  けれど、周防といると時々、勘違いしそうになる。  目一杯の優しさを注がれて甘えてしまいたくなる。その愛情に溺れていたくなる。何かを求めてしまいそうになる。  甘えたい。よしよしされたい。甘やかされたい。周防じゃないと意味がない。  なんでこんな聞き分けのない子どもみたいになってしまうんだろう……。 『入中、ありがとう。元気が出た』  嬉しそうな声にホッとする。 「ホントですか? よかったです」 『今度は俺のために、特別なダンスを踊ってくれ』 「はは、いいですよ、別に。踊るのも好きですから」 『嬉しいな』 「じゃあ、歌いながら踊りますね」 『それは凄い』 「周防さん一人のためにダンスを……歌も俺が作って、振りも自作で」 『ああ、きっと可愛いだろうな……』  周防のことを考えて早めに通話を切らなければと思いながら、どうしても切れなかった。  もっと周防の声を聞いていたい。  そして、もっと笑ってほしかった。  なんだろう、この気持ち。電話を切ろうとして切れない気持ち。甘いような切ないような、心がざわざわする衝動。切った後の沈黙が怖いと思う感覚。  ――この感覚は知っている。  でも……。  勘違いしてはいけないと思う。相手に期待するのも駄目だ。  違う違う、と自分に言い聞かせる。多分、違う。楽しくて距離感を見誤っただけだ。  あの何かを予感させるような二文字を、また無意識のうちに飲み込む。  自分にはしなければいけないことがある。流されてはいけないことがある。今のこのドキドキも、スマホを持つ指先の熱さも、聞き耳を立てている感覚の鋭さも、全て勘違いだ。 「じゃあ、また」 『ああ。入中もゆっくり休んでくれ』  しばらく待って周防が躊躇うように通話を切り、陽向は確認せず、スマホを裏返した。  重い、ゼラチン質の沈黙を味わう。  何も流れない、止まったような時間の中で、違う違うと自分に言い聞かせた。  頬が熱い。指先までジンと痺れた。  シーツに顔を埋める。その冷たさが心地よかった。  ――駄目だ。流されるな。  言い聞かさなければならないほど何かが進んでしまっていることに、陽向は薄々気づいていた。

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