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【10】ズレた分だけキミがスキ……⑥
明るいオフィス街を並んで歩く。周防の革靴が規則正しく進むのをただじっと眺めていた。
肩が触れ合うほど近い距離にいるのに、心が遠い。何をどう掛け違えてしまったのか自分でも分からない。そもそも全てが陽向の勘違いなのかもしれなかった。
何かを期待して、勝手に裏切られたような気分になっている。一人で一方的に傷ついている。経験したことのない焦燥感に煽られて気持ちが落ち着かず、つい誰かを責めたくなってしまう。周防が悪いわけではない。陽向がおかしいのだ。混乱が重なって、自分でも自分の気持ちが分からない。何をしたいのか、どうしたいのかも、もう分からなくなっていた。
大通りに出て横断歩道を曲がろうとした時、突然、背後から衝撃を受けた。
腕をねじられるような痛みを感じて、その場に蹲る。
何が起きたのか分からないまま顔を上げると、バイク便に乗った男が陽向の鞄を奪って逃走しようとしているのが見えた。あっという間にバイクが遠ざかる。
「入中! 大丈夫か!」
「俺は大丈夫です。……でも、ICレコーダーが!」
「くそ、やはりな」
周防はしばらくそこで待ってろと言うと、突然、待機していた騎馬隊の隊列に向かって走り出した。警視庁騎馬隊の隊員に何か告げたと思うと鐙に足を掛け、魔法のようにひらりと馬の背に乗った。ヘルメットもプロテクターもブーツも装着していない、スーツに革靴姿のまま馬を発進させる。
――え?
夢を見ているのだろうか?
陽向は自分の目を疑った。
周防は手綱を短く持つと馬の腹を軽く蹴り、発進の指示を出した。馬は瞬時に反応し、蹄の音を鳴らしながら加速していく。あっという間に周防の背中が小さくなった。
――信じられない。
周防が鞄を取り返すために馬に乗ったのは分かったが、あまりのことに茫然としてしまった。
美しい乗馬姿勢を保ったまま駆け抜ける周防を眺めながら、胸がいっぱいになっていた。
――周防さん。
――なんて凄い人なんだ……。
馬は賢い。だから騎乗者が尊敬に値しない人間だと分かると、二度と主の指示を聞かなくなる。訓練を受けた馬ほどプライドが高く、乗るのは簡単だが乗りこなすのは難しい。自信のない騎乗者が指示を出すと、ここぞとばかりに主導権を握ろうとして傲慢な態度を示す馬もいる。実際に陽向は乗馬体験でポニーぐらいの可愛い馬に振り落とされたことがあった。
――周防は皇居の馬でさえ従わせるんだな。凄いな。
右腕を抑えながらぼんやりしていると、すぐに周防が戻ってきた。
スーツの裾をはためかせながら一直線に陽向の方へ向かってくる。ちょうど陽向の目の前で馬がピタリと止まった。高い位置から周防と目が合い、あまりにも堂々とした立派な姿に言葉を失う。王を守る騎士のように悠然としていた。
「大丈夫か?」
「周防……さん」
名前を呼ぶのが精一杯だった。
熱い息が肺の奥から込み上げて、言葉にできない感情が喉元で絡まった。もうどうしていいのか分からない。
「犯人は捕まえられなかったがヘルメット越しの顔は見た。鞄も取り返した。ほら」
馬から降りた周防が鞄を差し出してきた。無言のまま無傷のジュラルミンケースを受け取る。何か言わなければと思うのに何もできない。ほとんど放心状態だった。
「おまえが大切にしてる鞄だからな。おばあ様からもらった大事な宝物なんだろ?」
「…………」
「よかった。取り返すことができて」
周防はICレコーダーを取り返せたとは言わなかった。陽向が大事にしている鞄を取り返したと言った。それがたまらなく嬉しかった。目の奥が熱くなって、視界が歪む。周防の優しさに心臓がぎゅっと引き絞られた。
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