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【14】ある日、アヒルの日……⑤

「ある時、学校から帰ると母親が濃い化粧をしていて驚いた。長い髪を綺麗に巻いて、ストッキングを履いていた。俺はおかしいなと思った。専業主婦の母親がそんな格好をするのは授業参観の時だけだ。普段の母親はほぼノーメイクで髪型にもあまり頓着しない方だった。当時、俺は八歳になったばかりだったが、その日の違和感は今でもはっきりと覚えている。部屋に入ると真ん中にアヒルのぬいぐるみがいて驚いた。俺はその瞬間、部屋にぬいぐるみがいる理由が分かった。俺は母親に捨てられる――それが明瞭に、本能的に分かった。母親は笑っていた。けれど、その手が震えていた。母親は俺に向かって『すぐに帰って来る』と言った。けれど、二度と帰って来なかった。俺はそれが分かっていた。分かっていたのに止めなかった。止められなかった。泣いたり騒いだりしたら母親を傷つける。今以上に母親を苦しめてしまう。俺は気づかないふりをして、母親を笑顔で見送った。『バイバイ、お母さん』と。出て行く覚悟を決めている母親の目に、最後の笑顔を映したかった。泣き顔を見せたくなかった。子を捨てる道を選んだ母親に、八歳の子どもがした選択は、無理やり作った自分の笑顔を見せることだったんだ」  周防の母親は以前から父親や親族との折り合いが悪く、精神を病んでいたという。  周防はその日から上手く笑えなくなってしまった。  まだ幼い少年の過酷な現実に、陽向の胸は痛んだ。 「ドアが閉まるまで俺は我慢した。本当は泣き叫びたかった。いらない、こんなものいらない。ぬいぐるみなんかいらない。お母さんがいてくれればそれでいい。他に何もいらない。だから俺を置いていくなと。……他の誰も、何も、母親の代わりになどなれない。子どもにとって母親は、何物にも代えがたい唯一無二の、特別な存在なんだ。そうだろう? 俺も一緒に行く。お母さんを守ると、そう思った。けれど、それが母親の負担になることも分かっていた。八歳の自分にできることは何もなかった。母親を守るためにそうするしかなかったのだと、俺は自分に言い聞かせた。その日から俺は、父親とぬいぐるみのアヒルと暮らすことになった。衣食住に困ったことはなかった。それなりに裕福だったし、夕方にはお手伝いさんが来てくれて、今思えば何不自由ない暮らしだった。けれど、純粋な愛情に飢えていた。俺の味方はそのアヒルのぬいぐるみだけだったんだ」 「……凄く切ないです」 「俺が笑えなくなったのも、女性恐怖症になったのも、幼い頃に母親に捨てられたことがトラウマになったからだろう。今でも心のどこかで大人の女性が信用できない。多分、あの日の母親の髪型と化粧が俺の心に焼き付いてしまったのが原因だ。ぬいぐるみや着ぐるみが好きなのは、それが同志であり、信用できる相手だったからだ。小さい頃、俺はアヒルにもたれ掛かりながら色んなことを話した。今日あったことや、誰にも言えない秘密なんかを。楽しかったことや辛かったこと。未来のこと。アヒルはなんでも聞いてくれた。大きくなるにつれて自分がみにくいアヒルの子だったらよかったのにと思うようになった。それならいつか、たった一羽の白鳥になってこのアヒルや周囲の人間を幸せにできるのになと」 「周防さんは充分、周りの人を幸せにしています」 「そうか?」 「はい。きっと本当に白鳥の子だったんだと思います」  ふと想像してみる。Tシャツに短パン姿の周防がアヒルにもたれ掛かっているところを。アヒルの腹をゆっくり撫でながら幸せそうに話をする幼い周防が見えた。目をキラキラさせながらたくさん話をしたのだろう。アヒルもきっと幸せだったはずだ。

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