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【20】-3
岩田は妻に先立たれてから、毎日店に通うようになったそうだ。
カウンターに座り、同じ話を日水に向かって繰り返していた。泣いてばかりいる岩田に日水は黙って耳を傾けていたという。
店の客の多くが中高年の男性なのに、同世代の男性たちより考え方がリベラルなのは、日水の影響が大きいと慎一は言った。
「日水さんに、会いたかったな。どんな人だったんだろう」
慎一は「魔法使いか仙人みたいな感じの人だった」と言った。
丸いフチなし眼鏡と白い口髭がトレードマークで、おしゃれで物静かな人だったと。
「でも、怒る時はすごく怖いんだ」
手元のグラスを見つめて、懐かしそうに小さく笑った。
日水は、慎一がどんなに荒れていても気にしなかった。
悪いことは悪いと言い、改めれば黙ってにこりと笑う。それだけのことなのに、いつの間にか、人を殴ることや傷つけることがバカらしくなった。
まわりを恨んだり、ひねくれて当たり散らしている自分が恥ずかしくなったという。
「気が向いた時に店を手伝うようになると、『こんなことでも、覚えれば食べていくくらいはできる』って言って、一通りのことを教えてくれた」
掃除や皿洗いから始まって、簡単な食事メニューの作り方、ビールの注ぎ方や水割りの出し方、定番のカクテル…。少しずつレパートリーを増やし、店の管理や帳簿のことも丁寧に教えた。
慎一がやっと一人前になった頃、肺に癌が見つかった。
「煙草、吸わなかったのにな。『これでやっと隠居して楽ができる』って、喜んでたんだけどな…」
アイスピックを握る手を止めた慎一に、和希はそっと言葉をかけた。
「岩田さんたちが言ってた。慎一に看取ってもらって、お店も継いでもらって、日水さんにとっても、いい縁だったんじゃなかなって」
慎一は顔を上げ、「そっか」と言って、にこりと笑った。
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