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【21】-1

 引っ越し先を決めたことを母にメールで伝えると、翌日の昼休みに電話がかかってきた。  定年を迎え、母は悠々自適のおひとり様生活を満喫しているようだった。 「お母さん、僕は一生、結婚しないかもしれないよ?」    思い切って口にすると『和希の人生なんだから、好きにしなさい』と言われた。 「いいの?」 『いいも悪いも、あなたの人生じゃない』  家を出るように言った時、さんざん『いい人を見つけて、結婚しろ』と言ったではないかと和希が言うと、それしか思いつかないからそう言っただけで、違う生き方を否定するつもりは全くなかったと返してきた。 『学校を出たら就職して、ある程度の年になったら結婚して、子どもを産んで家を買って……。なんにも変わったことはしてこなかったけど、お母さんはそれで、それなりに幸せだったなって思うのよ。だから、特にやりたいことがないなら、和希もそうしたら?って言ってただけよ』  そして、自分も少しくらいレールから外れてもいいかもしれないと、ある日ふと思って、父との離婚を考えたのだとも言った。  まわりが驚くのが新鮮だった、陰で何か噂されているかもしれないが、今さら気にするつもりも相手をするつもりもないのでどうでもいいと言って笑った。 「自由だね……」  苦笑まじりに言うと『自由よ』と答え、『この間、おとうさんとデートしたの』などと言いだす。  外で待ち合わせて会うのが新鮮だった、恋人同士に戻ったみたいだと、ウキウキと話し続けた。  遠い目になって、和希はそれを聞いていた。  父と母が別れると言い出し、自分が生まれ育った日比野家という「家庭」がなくなり、これからは和希が、自分の手で「家族」や「家庭」を作るのだと言われた時、これまでにない焦りを感じた。  人にさわることが苦手でも、恋をしなくても、一人で生きていけると思っていた。けれど、その気持ちのどこかに、「父」や「母」がいるという安心感があったのだと気づいてしまったのだ。  誰にもさわれない和希は、誰も知らないところで、孤独という絶望の闇に突き落とされた。そんな気がした。  出口のない広大な闇の真ん中で途方に暮れている気分だった。  あの日、慎一に会うまでは。 (ってことは、タカとヤスのおかげか……?)  それもなんだかヘンだけれど、要するに「何かの縁」だったのだろう。その縁に感謝しよう。  母のはしゃいだ声が続いている。  もしかしたら、こんなに長く母と話をしたのは初めてかもしれない。 『だから、和希も好きなように生きなさい』 「うん」  和希が幸せなら、それでいいのだからと、母は言った。

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