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第14話
「ギアメンツさま、怪我はありませんか?」
「な、ないです」
「…………。では、ここを出ます。自力で登れますね?」
彼は一瞬返す言葉に気になる間 を開けたが、しかしあまりに無謀なことを云われた宝は、それを気にするどころではなかった。
「えっ⁉」
(えぇっ? どういうこと? これを俺に登れって? いや、ムリムリムリ)
「さきに登ってください。私は後ろからついて行きます」
「……は、はい」
眉をハの字にして振り返った宝は、しかし彼の強い眼差しに云い返すこともできず、しぶしぶ目についた窪まりのひとつに手をかけた。
それは内壁の組み具合や刻まれた溝で作られたささやかな階段で、いうなれば壁にぴったりくっついた梯子を登れといった感じだ。非常時用なのか、なけなしの造りのものだった。
(こんなの普通、登れないんじゃないか?)
もういちど男を振り返ると、彼は大丈夫だというように力強く宝に頷いてくれる。宝は励まされたような気持ちと、彼に信じてもらっているような不思議な感情を覚えた。
(結城なら簡単に登ってしまうんだろうな。でも俺だっていつまでも結城になんて負けてられないし! それに後ろには、このひとがちゃんとついていてくれるんだ)
宝は自分を奮い立たせると、力いっぱい井戸の石段を踏みこんだ。
驚くことに井戸の階段は想像よりはるかに使いやすく、腕力のない宝にでも上に上にと登っていくことができた。途中宝がふらついたとしても後ろにいる男がちゃんと支えてくれ、つぎにどう動けばいいのかもアドバイスしてくれる。
彼はとてもやさしく感じのいい青年で、宝は彼がいてくれることで安心して先へとのぼっていくことができた。
水面から五メートルほど登っただろうか。ちょうど、あと一メートルくらいかなと思ったとところで、彼に話しかけられた。
「ギアメンツさま、ここで一度止まってください。私がさきに出て外の様子を確かめます」
「え? あ、はい。わかりました」
あまり待たされると体力尽きてきっともう一度落ちてしまうなという心配もあった。しかし先に井戸の外に出たとして、そこにまただれか自分を襲うものがいても困る。想像して震えあがった宝は、素直に彼の言葉に従った。
銀髪の男は腕を伸ばすと滑車からのびたロープを掴み、するすると簡単に上に登っていった。そして反動をつけてバランスよく井筒の縁に立ってしまう。
「かっこいい」
(すごい。まるで結城みたいだ)
お陰でたいして待たされることもなく、宝は井筒の外から手を差し伸べてきた彼に引っ張り上げてもらえ、井戸から脱出することに成功した。
(よかった! 死ななくてすんだ! 俺、助かった!)
「ありが、――うわぁっ⁉」
井筒に着いた足を地面に下ろしながら、彼にお礼を告げるために顔をあげた宝は、すぐ隣で転がっている人間に気がついて悲鳴をあげた。
「ギアメンツさま?」
戸惑った顔をして宝の視線をおった彼は「ああ」とそっけなく呟く。
「大丈夫ですよ。傷は派手に見えますが、もちろん致命傷は与えていません」
そうは云われても、井戸の傍で伏した男は、背中から大量に血を流している。しかも苦しそうに呻 く男のがっしりした体躯は、ときおり痙攣していた。
宝は鼻孔を刺激する生臭い血の匂いに、なんどか嘔吐 いて唾を飲みこんだ。
「あ、あぁ……、やだ。このひと死んじゃうの?」
声が掠れてしまう。痛みの走る胸を震える指さきで押さえた宝は、心細くて銀髪の男に身を寄せる。恐怖で心臓がはりさけそうなほどだった。
あまりにも惨 いありさまから視線を外したさきのパティオにも、また誰かが倒れている。
「あ、あのひとは?」
背の高い彼を仰 のくようにして訊くと、宝の髪が頬に当たって擽ったかったらしく、彼は目を眇めて顎をずらした。
「あれは平打ちしただけです。とうに起きているかと思っていましたが、転んださきで額でも打って気絶しているんでしょう」
「ま、待って、待って!」
長い脚でさくさくとパティオで倒れている男のへと向かう背中に、宝はがしっとしがみついた。
血に染まった怪我人の近くにひとりで取り残されるなんてごめんだ。体裁なんてかまっていられない。
「ギアメンツさま?」
男がまた当惑したように、宝の顔をみた。暫くじっと自分を見ていた男の視線がそらされると、その不可解な反応に宝ははっとした。
(もしかして俺が本物のギアメンツじゃないって、疑われてた⁉)
夜とはいえ、月の光で外はとても明るい。
暗い井戸のなかとは違い、宝に彼の美しい緑の瞳が確認できるように、相手からも宝の顔がはっきりわかるだろう。
(きっとこのひと、本物のギアメンツと知り合いなんだ)
――もしかして、バレた⁉
宝はとっさに男の背中に顔を埋めて隠す。
しかし、彼はそのことにはいっさい触れず、黙りこんだままふたたびパティオに足を進めていった。
幸いパティオで倒れていた男には息があったので宝は安堵したが、男の帯刀 に気づくと助ける気にもなれず、いますぐここから立ち去りたくなる。
銀髪の男の腕にしがみつく宝の指にぎゅっと力がはいると、そのうえに彼の手が重ねられた。
「……なに?」
「ギアメンツさま。さきほどから震えていますが、どうされたのですか?」
「……え?」
「ああ、もしかして水に濡れたせい……?」
この男は宝が恐ろしさに震えているということが、察せられないらしい。絶句した宝だったが、まぁ、彼が勘違いしてそう思ってくれるのならば、男としてのなけなしの矜持 が保たれる。それはとても都合がよいと、こくんと頷いておいた。
返事をしなかったのは、唇が震えてうまく声が出せなかったからだ。
しかし自覚していたよりも宝の限界は近かったらしく――。
「――ギア⁉」
頷くや否や、身体からふうっと力が抜けた宝は、かくんと膝を折ってその場に崩れ落ちた。
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