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第26話 

                     * (この部屋で安らぎを覚える日がくるだなんて、思ってもみなかった)  光の渦を潜り抜けて二日ぶりに晶の研究室に戻ってくることができた宝は、目に映る見慣れたラボにひとまず安心した。  そしてはやくイアンの怪我をプラウダに治療してもらわなければと隣にいるイアンを振り向くと、彼は怪我の痛みに顔を顰めながらも、目のまえの光景を刮目(かつもく)していた。 「イアン?」  宝の声に、イアンの身体を支えていたロカイのほうがさきに反応して、椅子に向けて足を進めた。 「うぅっ」 「イアンッ⁉」  動いた拍子に傷が痛んだのだろう。小さく呻いたイアンに宝は狼狽えた。傷口はロカイが止血のためにずっと圧迫してくれているが、当てがわれた布は既に血で真っ赤に染まっている。  怪我をしている本人や血に濡れた布に直に触れているロカイよりも、それを見た宝のほうが卒倒してしまいそうだった。 「お兄さま、そんなに怖がらなくても大丈夫ですよ。さぁイアンこちらにきてください」  座るように云われて従ったイアンの傷口に、プラウダの手が当てがわれる。するとじきに彼女の額と手のひらから淡く光が生じはじめた。イアンは彼女の施す術にまたもや驚いた顔をして息を飲んでいた。 「不思議だ。痛みがなくなっていく」 「ギアメンツ。プラウダは泉に籠こもったばかりだ。だからこの星であってもおそらくすぐに治癒できるはずだよ。だから安心しなさい」 「う、うん」  宝に優しく教えてくれたロカイに、イアンが訊ねた。 「これが姫巫女の力なのですか? それに、ここはどこでしょうか?」 「ここは私たちの住む星とはまたちがう星だよ。晶と結城の住む星だ。そしてその治癒の力も魔法陣によるこの星への移動も、すべて姫巫女を通じた神の力だ。君はいままで見たことがなかったのかい?」 「ええ。聞いていただけで、実際に見るのはこれがはじめてです」 「多くの民がこの神の御業を忘れて生まれてくる。そして思いだしもしないまま生きているんだ」 「ヘンなの。同じ世界に住んでいるのにあの悪者たちやイアンみたいに、魔法を知らないひともいるなんてね」 「結城。この地球にだって、プラウダに近い力を持つものがいるはずだよ。でも君は知らないでいるだろう?」 「うそぉ。そんな異常なひとが地球にもいるの⁉」  ロカイの言葉に、結城は目を丸くしている。 「お前自身がそうだろうがよ……」  イアンを案じて沈痛な面持ちをしていた宝だったが、そこだけは思わず彼女に突っこまずにはいられなかった。  プラウダの治療で、イアンの傷は痕もなくきれいに治った。   胸が軽くなった宝は、そのあと場所をリビングに移しておこなわれた話あいでは、(くつろ)いで彼の傍に寄りそっていられた。  峠まえの宿場町に偵察に戻ったイアンが予定よりも遅く神殿に到着したのは、彼がもっと先にある別の街にまで足をのばしていたからだったらしい。 「報告することは三つです」  そう切り出したイアンは宿場とカカオナの街で見聞きしてきたことを、ロカイに報告しだした。 「まずカカオナの街でのことですが、夜明けに都から着いたなに者かが『父王を追い出した国を恨んで、姫巫女が(いも)なる川の上流に毒を撒きに行った』と話したそうです。それで早朝から国が終わるという噂が流れ、街中のものが怯えていたそうです」 「おそらく今日小川で捕らえたあの聖職者のことだな」 「ええ、聞いた背格好からそのように思われます」 「ならタイミング的に今朝のコウシンの第二騎士団員は、本当に先にあった噂を聞いてきただけなのだろうな。だとしても、神官長の動きには違和感を感じる。一昨日、昼に皇太子の命を狙ったものたちの後ろにいるのはいったいだれだ? 神官長ではなかったというのか? あれが彼の仕業なら、国を恨んで犯行に及んだ兄妹(きょうだい)が同時期に殺害されていたら辻褄があわなくなってしまう」  革張りのソファーで長い脚を組み変えたロカイは、「さて、」と楽し気に目を細めた。 「イアン、お前はどう考える?」 「神官長の意図しないところで、彼を支持する者の勇み足があったのかと」 「そうか。お前も神官長側の者だろうとは思うのだな。彼らがひとの命を狙うようなことをしない、ともう否定はしなのか?」 「……はい」  ロカイが口もとを緩めた。  「それにしても、たしかにあの川は都をはじめ多くの街や村に流れていくが、神に仕える神官の、しかもその(おさ)たる者が、聖なる川の浄化作用を知らないとは嘆かわしいな」  川に(はな)たれた毒物は、(ほう)っておいても、次の街に流れ着くころには川の底に沈む鉱物たちの発する粒子により浄化されていたはずだ、そうロカイに教えられて、宝はイアンの隣で感嘆した。  彼らの世界と自分たちの住むこの世界は、やはりおおきくちがうのだ。まだ彼らの世界のほんの一部しか見ていないが、自然や生活スタイルがひとにやさしい世界だと感じた。宝のまだ知らないところに、病気や犯罪、交通事故や紛争などもあるのだろうか。 「姫巫女が都を出発してからの時を数えて、川合(かわあい)の上流部にいるだろう時間になっても一向に水は安全のままだったそうで、結局騒ぎは起きなかったそうです。話は虚言だったんだろうとされていました。しかも(みな)の心配とは裏腹にそのころになると街の噴水の水が輝きだしたそうです。彼らはそれを姫巫女の御業(みわざ)だと賛美し、多くのものが街のあちこちで神に祈りを捧げていました」 「ねぇねぇ、それってプラウダが云っていた、神殿で祈ることの効力ってやつ?」 「ああ、そうだよ」  結城の質問にロカイが微笑んだ。「すごいね」と感心する結城には、自分が毒を流そうとした悪事を未然に防いだという(おご)りがまったくみられない。 「結城、君は今日神の水路(すいろ)として立派な働きをしたよ。えらかったな」 「えっ、そうなの? えへっ」  ロカイに褒められて照れる結城の姿は、年相応で愛らしいものだった。 「きっと下流にある都にも、明日には同じ光景を見ることができるでしょう」  イアンも珍しく表情をくずした。 「あと、途中出会った顔見知りの騎士が云うには、上層部からの指示が倒錯しているらしく、皇太子と姫巫女を連れ帰るのには生死を問わない、というものも混じっていたそうです。その意図まではわかりませんでした」 「それで昨日、井戸で皇太子は殺されかけた、か……」 「……」 「やはりそちらについては左大臣――。残念だが彼の真意が透けてきた」  皇太子の侍従であるロカイの独言(どくげん)に、一介の騎士であるイアンは黙っている。 「最後ですが。都ではあくまでも『悪政による裁きで、水が汚染される』という神託で騒がれていたにも関わらず、なぜかいま騎士団による川の警備が行われています」 「それで毒の件については左大臣は関係なく、神官長の単独の犯行だったということと、左大臣派がまったく託宣(たくせん)と云うものを信じていないということが証明されたな」

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