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第35話

   この世界にきてなにか気にいったもの。口にいれてうれしかったもの。  それはなんだっただろうか、と問われて暫く考えてみた宝は、はじめてイアンに会った日に、彼に手渡されたマグカップのぬくもりを思いだした。  あの日イアンといっしょにベッドにはいった宝は、どれほど安心して目を閉じられただろう。今思えばあれはまるで失っていた半身に、やっと巡り合えたかのような心地だった。 「……あの。じゃあ、チャイがいいです。あと木の実のはいったパンかな」  木の実のパンは昨日イアンが宿で朝食のときに好んで食べていたのだ。とてもおいしそうに見えた。 「チャイか。宝はあんな甘いのがいいのか」 (うん。甘くてとてもやさしい味がした) 「ぼくたちはこんなにも似ているのに味覚はちがったんだな。わかった。最高の茶葉を届けさせるから待っていろ」 「ありがとう、ギアメンツ」 「宝。気分が塞いでいるうちはプラウダの傍にいろ。そうすればお前が正しくお前でいられるよ。宝に神の加護を!」  最後にそう云った彼は宝の額に口づけると、軽い動作で馬に跨った。なにが馬が苦手だ、ギアメンツの嘘つき。  簡単そうに手綱を操り彼らは揃って馬の鼻づらを街のほうへ向けた。いよいよお別れだ。イアンの後ろ姿に胸がきりきりと千切れんばかりだ。鼻の奥がつんとする。 「……っ」 (イアン……いやだ……)  ダメだ、もう彼は行ってしまう。そしたらこれで最後だ。 (……イアンっ、いやだっ)  行かないで。行かないで。俺を置いて行くな。残りの僅かな時間だけでいい、最後までずっといっしょにいてよ。 「……っく……」  ぎりぎりまで我慢した涙が地面に落ちたのと、馬の前かきに驚いて宝が顔をあげたのは同時だった。 「あ……」  イアンが宝のまえに馬を寄せたのだ。 「宝」  はじめてイアンに本当の名まえで呼ばれて、心が震えた。頭上から伸びてきた彼の大きな手にやさしく濡れた頬を拭われると、涙が余計に溢れてくる。 「うぅっ……っく、……うぅ。ごめ、ごめん、なさい」  行かないでとも置いていかないでとも云えない。そして気持ちよく見送ることもできない。宝は申し訳なさにごめんなさいとだけ繰り返す。 「宝、左手を貸して」  そう云ったイアンは左耳の飾りを取り外すと、それについていたなにかを切り離した。 「……?」  涙の溜まった瞳で必死に彼のことを見上げていた宝の左手が、馬上のイアンにひっぱられる。彼が宝の左の薬指に通したのは銀色の指輪だった。  「宝。ギアメンツさまを城に送り届けたらお前のもとに戻るから。ここで待っていろ」 「……イアン?」  不安に揺らぐ宝の瞳に、イアンは力強く頷き返した。 「イアスソッン、行くぞ」 「はい」 「ではな、宝!」  馬を返して街の中心へ駆け出した彼らの姿は、みるみるうちに遠のいていき、あっというまに宝の揺れる視界から消えていった。    彼らが見えなくなったあと、(はな)(すす)った宝はイアンがつけてくれた指輪に目を落とした。顔のあたりに寄せてじっくり見てみてみると、銀色のリングには薄紅色の石がついている。すこしいびつな半球の宝石は、まるで花のつぼみのようだ。 (なんのための指輪?)  イアンがこれを預けていったということは、彼は自分のことを嫌っていないのかもしれない。まだ期待していていいのだろうか。  宝は心なしかふんわりと身体が緩まるのを感じた。今朝彼の腕のなかで目覚めたときの気持ちが蘇る。  イアンはなんて云っていた。  ここで待っていろって。それに指輪ってふつう好きなひとに贈るものだ。例えば――。 (こ、婚約指輪!?)  とんでもない発想に、宝は顔を火照らせた。 (お、俺は、なに考えているんだ。それにこれは貰ったわけじゃない。ただ預かっているだけだしっ。そもそも俺たち男同士だしっ!)  その男同士で昨夜あらぬことをしてしまったことまで思いだし、宝はいよいよ羞恥で身もだえる。そうなると忘れるように心がけていた、彼を受け入れた身体の違和感までが気になりだした。 (ど、どうしよう!?) 「ねぇ」 「うわあっ!」  自分の身体を抱きしめてきゅんきゅんしていた宝は、突然声をかけられて飛びあがった。  そういえばここにはまだひとり、ひとがいたではないか。宝はどぎまぎする胸に手を当て、「ひゃっ」と声をあげていた彼女を振り返った。 「あー、びっくりした。ぽうっと幸せに浸っているところにごめんなさいね。あなた、宝って云ったわよね?」 「う、うん」 「あたしはアモン」  赤茶色の髪を緩いおさげにした彼女は、宝と同じ歳くらいだろうか。すっきりとしたパンツスタイルで腰に手を当てたアモンは、にこっと宝に笑いかけた。 「ところであなたが噂に聞く皇太子のご兄弟かしら?」  ギアメンツの兄弟といえば、妹のプラウダのほかには名まえだけ知っている弟のエメラルダがいるが、その弟やらもギアメンツにそっくりなのだろうか。 「ちがうけど…‥。俺は赤の他人だよ」 「そうなの? そっくりな姉がいるってことだけど、そうね、あんた男だもん。ちがうか」 「ギアメンツにそっくりなお姉さん!? そんなひとがいるの?」  ってか俺にそっくりな女の子ってどんなだ、と宝は口をぽかんと開けた。 「噂よ。世の中そっくりなひとが三人はいるって云うけど、本当にあんたは皇太子にそっくりね。驚いちゃったわ。やっぱり影武者だったりするの? お給料はいい?」  影武者だなんてとんでもない。そんなお仕事なんて頼まれても絶対にお断りだ。つい昨日まで大して違わないことをしていたのに、それを棚のうえにあげて、宝はぶんぶんと首を横に振っていた。 (皇太子として神殿に行くっていう約束は果たしたんだから、もう本当のことを云ってもいいんだよな?) 「ううん、ちがう。まぁ、似てるってことで代理はしたことがあるけども……」 「へぇ。まぁ王室のひとじゃないってことで、フランクにつきあわせてね。よろしく、宝」 「うん。こちらこそよろしく」 (っていっても今夜で最後なんだけど)  嘘も方便だ。宝は曖昧に笑っておいた。

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