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第40話
「や……やっ……」
違う。
宝は違うと大きく首を横に振った。それは過去の出来事だ。宝はしつこく蘇る音に耳を押さえ、首を振って記憶を追い出そうとする。違う、違う、違う。
ここにいるのはイアンだ。たとえ離れ離れになっても、ちゃんと生きていてくれたらいいと、昨夜 あれほど自分になんども云いきかせたイアンだ。目のまえで冷たくなって死んでいった母とは違う。
「イアンッ、イアンッ」
力なく横たわる愛しい男に縋りつき、彼の温もりを確かめたい。しかし宝はへたりこんだまま動けずに、イアンの名まえを繰り返すしかできなかった。
「イアン……イアン……」
腹に刺さった刃物が、そこから流れる血が恐ろしいのだ。ぎこちなく顔を逸らすと、そこには苦しげに眉を寄せるイアンの顔がある。
(……苦しいよね?)
彼の顔からはみるみるうちに血の気が引いていく。僅 かに上がった呻 き声に胸が詰まった。
どうせイアンに泣き縋ったとしても、いまの彼には抱き返してはもらえない。それにどんどん冷たくなっていく彼の肉体に絶望するだけだ。
心配した誰かの手がイアンに触れようとすることに宝は無関心だったが、「彼に触らないで」とそれらを止めたのはプラウダだった。
「イアン……イアン……やだっ いや、 いや……」
「宝、しっかりしなさい」
「あっ、あっ、あっ――――」
「宝っ!」
「俺が余計なことしたから、俺が……。俺……にっ、誰かが助けられるはずが、なかったんだ。俺が刺されればよかったっ。大事なひとを殺してしまう俺なんか、いなくていいんだからっ、俺が死んだらよかったんだからっ…‥っく……」
ふいに白い手に顔を挟まれて、ぐいと仰 のかされた。宝を間近で見つめる彼女は厳しい顔をしている。
「宝、いい? あなたが誰かを想ってしたことに余計なことなんてないわ。それで誰かが助かるかどうかの結果なんて、あなたの問題じゃないの。それは神とその誰かの領域よ。さぁ、あなたが今、彼を想ってするべきことはなになの!? 云うべきことはなに!?」
「うっ……っくぅ……」
(なにって‥‥…?)
彼女がイアンから視線を剥がしてくれたのは幸いだったのかもしれない。彼が死んでいくのを見なくてもすむからだ。
宝は弱々しく首を横に振った。
自分が云うべきことなんてなにもない。見ていなくてもわかる。
周囲に充満しはじめたむせ返るほどの血の匂いに、宝は知ってしまっている。イアンは死んでしまうのだ。だから自分が嫌だと訴えても、彼は叶えてはくれない。それでも願いを聞かせてしまうのなら、それは死んでいくものにとって残酷なものになる。
「宝、こんなときにいったいあなたはなにを見ているの? 見なければならないのは現実よ? ほら、あなたが見ている過去からその視線を剥がしなさい! そしてあなたに今できること考えなさい!」
「だ、だってっ! な、なにもないっ。俺には、なにもできないっ!」
宝は嗚咽で痛む喉から無理やり声を絞りだした。視界は涙でほとんど見えていない。
「じゃあ、ヒントをあげるわ」
悲壮な宝とは対象的に、プラウダは微笑んだようだ。
「過去はね、ひとを逞しく成長させるためにあるものよ。たとえそれが過ちであったとしてもよ? 失敗? そんなものは存在しないの」
宝にはプラウダの云っていることがわからなかった。失敗は失敗じゃないか。しかも自分は取り返しのない過 ちを繰り返しながら生きている。いまもだってそうだ。
「じゃあね、さっきあなたのなかに蘇っていたものはなにかしら? そこにいま必要なものが隠されているのよ。宝、云いなさい。捨て去りたい記憶はなに? 過ちだと思っていることは?」
「……あ……俺……」
体中の血液がドクドクと酷く脈打ち、痛みを伴って全身を駆け巡る。呼吸はどんどん荒くなっていくのに、上手く酸素を取り入れることができないでいた。
「お母さんだって、俺なんかがいなければっ……俺……、大切な、……お母さん……殺した。お母さんを殺したっ、……の、俺…‥」
十年前、母が死んだのは自分のせいだった。そしていまイアンが死んでいくのもだ。
宝が小学校の卒業式を控えたころだった。学校で体調を崩した宝を迎えに来た母との帰り道に、事故にあった。車道を横断した自転車を除けた軽トラックが、歩道を歩くふたりのところに突っ込んできのだ。
そのとき打撲だけですんですぐに起きあがった宝がみたのは、横倒しになったトラックと血まみれで横たわる母の姿だ。彼女は跳ねられたうえに、トラックの荷台から落ちてきた廃材の下敷きになっていのだ。
胸に刺さった鋭利な異物。赤く染まっていくワンピース。アスファルトのうえの大きな血溜まり。宝の大切なひとから生命の灯 が消えようとしていくあの恐ろしい光景が、いままた宝のまえで繰り返されている。
「痛いだろうって、思った……。だって、お母さん、苦しそうだった。……痛いって…‥」
あのときもひとがたくさん集まったけど、誰もなにもできないでいた。救急車を待つあいだに、母はどんどん白く、どんどん冷たくなっていって。宝はせめてと思ってひどく痛そだった彼女の胸に刺さった鉄材を、抜いてやったのだ。すると彼女は大量の血を吐いてこときれた。
宝の耳に溢れる血の音が、手に血に濡れた感触がまざまざと蘇る。
「うっ、わあぁぁぁっぁっ」
「宝っ。思いださないでいいからっ!」
プラウダとの間に飛び込んできて、宝を彼女から引き剥がしたのは結城だった。
「イアンは助かるよ! プラウダがいるじゃない。プラウダだけじゃない、ここにはいっぱい神官や、魔法で怪我や病気を治せるひともいるでしょ! そういう世界じゃない! 宝っ、宝っしっかりして」
いいや、すべてが十年まえといっしょだ。
「俺がちゃんとプラウダを守ったら、イアンはこんなことにならなかった!」
「あたしがうっかりしてたのよ。ギアメンツにプラウダのことを頼まれていたのは、あたしだったでしょ⁉ 宝のせいじゃない!」
宝を抱きしめながら叫んだ結城が、プラウダに叫んだ。
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