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第9話

 奈緒紀は目をつむるとさらに顔が幼くなる。長いまつ毛が頬に影をつくりだしていた。唇もピンクだ。 (ほんとこうやってたら、きれいだよな)  これでいて、それなりに筋肉がついていてしっかりと男で。――ちゃっかしと女とも経験済みなのだ。 (こいつ、どんな顔して女とやっているんだ? 自分のほうが女みたいな顔のクセに)  恭介はうっかりと、奈緒紀と女性とのその光景(こうけい)を想像してしまい、くらっとした。 「ば、馬鹿か、俺はっ」 (俺は今いったいなにを考えた……)  ばつが悪く、八つ当たりのように眠っている彼にデコピンすると、「ううんっ」とちいさくむずがられる。その声が思いのほか自分の官能を揺るがしたことに恭介は激しく動揺し、思わず誰も見てないよなと、きょろきょろと部屋をみまわしたのだ。  奈緒紀のスマートフォンのアラーム音が鳴ったのと、一階の玄関の扉が開く音が届いたのは、ほぼ同じタイミングだった。  勉強を続けていた恭介は、ベッドを振り返り起きそうにない奈緒紀に溜息を吐くと、腰を上げた。 「おい、奈緒紀。おまえスマホ鳴ってんぞ」  彼の頬をペチペチと叩く。 「んー。あぁ」  ようやく目を覚ました奈緒紀は、アラームを止めると、ベッドのうえで上体を起こして背伸びをした。 「俺行くとこあるから帰るね。先輩ありがとぉ」  そう云うと彼はひとつ欠伸をした。  まだ眠いならばここでゆっくり寝ていけばいいのに、この甘ったれはつぎは誰のところに行くと云うのだろうか。  深夜になると恭介のところに来るように、彼はその都度(つど)、自分の都合のいい相手のところを渡り歩いているのだろう。  奈緒紀はまるでエサを貰いながら徘徊する、のら猫のようだと恭介は思った。  行った先々(さきざき)でその場にある誰かの愛情をかすめ取っていくのだ。まるで猫がその爪で獲物を引っ掻くようにして。  まだ眠たそうにしている奈緒紀は、ずりずりとベッドから足を下ろすと、ベッドの端に放ってあったパーカーを手に取った。  さっきの玄関が開いた音は、母の帰宅を知らせるものだ。  このまま奈緒紀がひとりで階下におりて、母と顔をあわせると面倒かもしれないと思い、恭介は奈緒紀と一緒に下におりることにした。  すると読み通り階下に下りたところで、脱衣場から出てきた母と鉢合わせになる。 「あら恭介、あんたいたの?」  奈緒紀の姿を目にした彼女は彼を咎めるように、わずかに目を細くしている。 「うん。今日は学校午前まで。仕事は? どうしたの?」  恭介は嫌味を云われるまえにと、彼女に若干のご機嫌取りを含んだ返事をした。ほんとは母がどこでなにをしていたって、興味などない。 「今日の商談が近くだったのよ。だからもう、そのまま直帰させてもらったの。それよりもその子は――」 「こんにちわー。おねぇさん。お邪魔していました。留守中にごめんね」  母の話をさえぎって、奈緒紀が彼女に挨拶をした。 「え、えぇ、こんにちわ。でも私はこの子の姉じゃないわ。母親よ」 「そうなの? 怒っちゃった? ごめんね。今日は手ぶらだったけど、今度はなんか持って来るよ! じゃあまた。お邪魔しましたぁ」  云いたいことだけ云った奈緒紀が愛想よく彼女に手を振った。このチャンスを逃さないように恭介は慌てて靴をはく。このまま彼女のいる家から逃げだすつもりだ。 「俺もちょっと出かけてくる」 「あぁ。うん、気をつけていってらっしゃい」  今夜、母に欠片(かけら)でも奈緒紀の悪口を聞かされるのかと思うと、気持ちが塞ぐ。恭介は下駄箱に置きっぱなしにしていた財布を持つと、奈緒紀の服をひっぱって外へでた。 「先輩はどこ行くの?」 「あー。どこ行こっかな。奈緒紀おまえハラすかない? 昼菓子パンだけだっただろ? 一緒にどっか食べにいく?」  別に行くところがあると云ってここを出た奈緒紀を誘う自分に、いやらしさと彼に対する未練がましさを感じる。  恭介は自分との食事を引き合いにして、彼が今から行こうとしている『誰かとするなにか』が、彼にとってどれだけの価値であるのか見極めようとしているのだ。  だからつぎの奈緒紀の言葉に、すっと気持ちが軽くなる。 「えぇー。だったらもっとはやく誘ってよ。俺、ほんと今から行くとこあるんだもん」 「どうせお前を甘やかすヤローやオンナんところだろ? 遊びだろ?」  約束さえなければ自分を選ぶと言外(げんがい)に語った奈緒紀に、それでも満足が足りず、恭介はやっかみ半分でつづけた。  恭介の母は本来、程度の低い人間を嫌う。さっきだって茶髪を通り越してヒヨコのよう髪をした奈緒紀を見るなり彼女は警戒していた。おそらく「おねぇさん」と軽口を叩かれた時点で、母はいっきに不愉快になっていたはずだ。  あのとき恭介は(わざわい)を誘うような発言をする奈緒紀に、はらはらした。  彼女が勝手に不機嫌になるのは構わない。しかしあとで自分に文句を云ってくるだろうことが充分予測できて、あの瞬間、恭介はとても憂鬱になったのだ。それなのに――。 「あはは。ある意味当たっているかも。俺を幸せーな気持ちにしてくれる女の子のところへ向かいまっす」  そうだ。その笑顔だ。

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