16 / 38

第10話

 彼ににこっとされて、あの母は最後に機嫌を直していた。  どいつもこいつもみんなコイツのこの顔にころっとほだされる。玄関でいらない心配をさせられた恭介としては、いまは奈緒紀に嫌みのひとつやふたつを云ったとしても、許されるんじゃなかろうか。そう思ったら、迂闊に口が開いた。 「いいよなぁ。お前は苦労なさそうで」  愛されて育ったんだろう、そう云いかけて恭介は慌てて続きの言葉を飲みこんだ。彼がもしかしたら放置子かもしれないと、考えたこともあったからだ。  苦労なさそうだとか云ったのも、失敗だったろうか。恭介はしまたっと、ちらっと横目で彼を窺った。 (っていうか、なんでこんなお気楽極楽に、俺のほうが気を使わなきゃなんないんだ?) 「苦労? んー。苦労はしてないか……。俺には時間とお金が足りないくらいかな?」 「遊びすぎなんだよ。どうせ馬鹿な女に金使いすぎてんじゃないのか」 「あはははは」 (いいよな、コイツ。ほんとうに楽しそうに笑う)  それとも彼の笑い顔も、自分と同じで作りものだったりするのだろうか。恭介は隣を歩く奈緒紀の顔をじっとみつめた。 「ん? 先輩どったの?」 (いいや、ちがうな)  首を傾げて見上げてくる奈緒紀には、まったくストレスはなさそうだ。  まぁ、たとえこいつの笑顔が偽物だったとしても、自分のものとはまったく効果がちがうだろう。まず顔のつくりが全然ちがう。こいつは世間にかわいがられる顔だ。 (俺のエセ笑いとは、大違いだ……) 「ほらぁ先輩、眉間。皺寄っちゃってるよ?」  恭介の顔を覗きこんでそう云った奈緒紀は、のばしてきた指さきで恭介の眉間を突いた。 「そっか。先輩は妬いているんだな? その『馬鹿な女』ってやつに?」 「それは絶対にあり得ない」 「またまたぁ。意地張っちゃって」  腕を組んで、ふむふむとまことしやかに首を振った奈緒紀は、「やっと俺の人生初モテ期きた?」などと満足そうに呟いていた。 「妬かれちゃったらしょうがない。よっし、じゃあ先輩には特別に俺の天使に会わせてあげましょう! そしたらきっと、先輩のその眉間の皺もなくなるさっ」 「いらんわっ」  断ったものの、そう宣言した奈緒紀にいきなり手首を掴まれると、恭介は抗うこともしないうちに駅まで走らされて、ちょうどやってきた電車に乗せられてしまったのだ。  どうせ親のいる家にいるのは嫌だった。それに別に行きたいところがあるわけでもなかった。  だったら奈緒紀につきあってやってもまぁいいか、そう思って恭介はおとなしく彼について行くことにした。  どこに行くんだと訊いた恭介に、奈緒紀はついてからのお楽しみと云って行く場所も、その目的もはぐらかしたままだ。  気にはなるがなんども訊き返すの格好悪いと思い、恭介は黙って彼について行くことにした。  もしかしたら、おもしろい人物と出会えるのかもしれないし、それに万が一うるさかったり面倒そうなやつが出てきたら、その場で別れればいいだけのことだ。  道中(どうちゅう)、奈緒紀とはとりとめのない話をするだけだった。電車に乗って十五分ほど、そして駅をでてそこから十分ほど歩いてたどりついた建物に、恭介は目を瞠った。  そこはなんと保育園だったのだ。  ピンクの外壁にかわいらしい動物のイラストが描かれた建物からは、賑やかな幼児たちの声が聞こえてくる。 (まさかコイツここに入るのか? 幼児にヒヨコ頭のヤンキーを見せても大丈夫なのか⁉)  恭介の心配をよそに奈緒紀はさっさと校門をくぐると、すれ違った子どもの手をひく保護者たちと挨拶を交わしながら、どんどんなかへ進んで行く。  恭介は内心狼狽しながら、彼について歩いた。 「ここ妹の保育園なの。俺お迎え担当なんだけどさ、無断で時間に遅れると怒られちゃうんだよ。だから先生の気まぐれとかでホームルームが延びるの、ホント困っているんだ」  えらくシュールな悩みを抱えているんだな、と恭介は悩める顔の高校男児をみつめた。 「それよりも俺部外者だけど、入っていいのか?」 「保護者カード持っている俺といっしょだからいいっしょ」  ひとりっ子の恭介は弟妹がいない。それに親戚のなかでも自分が一番遅い子なので、小さな子には慣れていなかった。恭介は廊下で膝たけぐらいのちいさな園児とすれ違うたびに、蹴ってしまいそうだとどぎまぎしてしまう。 「こんにちわー。上条由那(ゆな)のお迎――」 「なおちゃーっ‼」  ゾウ組さんの教室の入り口についた奈緒紀が声をかけるやいなや、ピンクのスモックをきた幼児がすごい跳躍を見せて彼の胸に飛びこんできた。 「こらぁ! ゆなちゃん、お教室で走っちゃだめでしょ!」 「うおっ」  きっとこれが彼の妹なのだろうが、その塊は人間と云うよりもまるでピンクの砲丸のようだった。勢いうしろにのけ反った奈緒紀は、彼女を抱えたままなんとか体勢を整えると「ゆん、お待たせ」と、彼女の頬にちぅと吸いつく。  彼の唇が幼児の頬に触れて(たわ)むのを目にして、恭介はドキッとしてしまった。

ともだちにシェアしよう!