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第26話

 恭介はぎゅっと両手を握りしめながら、奈緒紀の言葉をまった。しかし次に彼からでたセリフは、余りにも場に不相応な暢気なもので、 「……そっか、そっか。先輩は溜まってたんだね」  そう云われて恭介は人生、いままでになかったほどに呆けてしまったのだ 「………………は?」  もしこのときのみっともない顔を、奈緒紀に見られていたとしたら、恭介はまた癇癪を起こして彼にやつあたりをしていたかもしれない。恭介は慌てて、顔を表情を引き締めた。 (はい?)  なんだって? こいついまなんて云った? 絶句する恭介に気づかず、奈緒紀は心底呆れたように、もういちど大げさな溜息をついた。恭介は気怠げに身支度をする奈緒紀を凝視する。 「俺さ、今日学校で先輩がしんどそうっていうの? 機嫌悪そうにしてたからさ、これでも一応心配してたんだよ?」  奈緒紀がこちらを向いて小首を傾げた。恭介はなんども齧りついて舐めたその細い首に、どきりとする。大きな瞳で見上げられるのも、心臓に悪い。 「それがさ、ただ単にやりたかっただけ? ただの欲求不満って。ナニソレ? だよ。先輩もうじゃないんだから、そんなん学校来るまえに自分で処理してこようよ?……はぁ……」  眉を八の字にした奈緒紀に、馬鹿なのこの子、というふうな表情(かお)をされて、カッとなる。 「なっ、ばっ、バカッ。違うわっ!」 「え? 先輩、相手いないとダメな派⁉」  若いうちからソレって贅沢だよ? とつづけた奈緒紀に、恭介はさらに憤慨した。 「ちがうっ、ホントにむしゃくしゃしてたんだ。前期のテスト三位落ちしてたプレッシャーもあったし、それなのに担任も、落合も好き勝手にひとを使うしっ、昨夜(ゆうべ)だって親がメシがないだの手料理をだせだの云いだして、くだんない夫婦ゲンカしたあげくに、あのクソ親父は早朝から俺のこと起こして『じゃあ父さん行ってくる』とかほざくし、クラスのヤツらだっていちいち口うるさいしっ、それにお前だって、神田と仲よさそうだし――」  恭介は神田の名まえを出したところで、しまったと口を押さえた。顔が燃えそうなほど熱い。 (やばっ、俺、なにをべらべらと……)  恭介はさっと俯いて奥歯を噛みしめた。頭が一気に冷えた恭介は、今度は顔を蒼くする。  吐露(とろ)した自分の弱さも大概だが、なによりも奈緒紀に自分が嫉妬してしていると勘違いされたくはなかった。  意気地のない恭介にはもう恐ろしすぎて、顔をあげて奈緒紀を見ることができない。 (最悪だ。なんかもう、俺、コイツにすべての恥部を曝してしまってる……)  恭介は彼に侮蔑される以前に、これだけの生き恥を見せた自分を赦せそうにない。羞恥で自分を消し去りたいくらいだし、彼の目に自分を映させているのも耐えがたいと思った。 (もうこいつとは、いっしょにいられない)  喪失感が半端なく、目頭が熱くなる。このまま恭介は膝をついてしまいそうだった。  それなのにそんな恭介に奈緒紀が興味津々に喰いついてきたのは、自分がいちばんはじめに話した成績についてだけだった。 「ねぇ、先輩? 三位落ちってことは、いつもは一番か二番ってこと?」 「……そうだけど」 「へえぇ。すっごいね、先輩。よっしーより頭いいんだ」 「……お前、怒ってないのか? 俺のこと軽蔑してんじゃないの?」  地面を睨みつけながら問う。 「んー。怒るっていうより、なんかいろいろ勘違い? 先輩けっきょくは溜まってるってだけだったってのにさ、俺わかんなくって。……だったら俺が悪いかぁって」  そこでまた奈緒紀が「はぁっ」と溜息を吐いた。 (いや、機嫌が悪かったのであってるんだけど――) 「まさか、寝るってこっちの意味だと思わなかったんだもん」 「は?」  困惑して恭介は二度と見られないはずだった奈緒紀の顔を、つい見てしまった。 「起こしてってソッチのこと? みたいな? ってか勝手にびんびんに起きてるし」 (びんびんって……?)  それがなんのことを云っているのか気づいた恭介は、顔を赤くした。 「ばっ、ばかっ! なに云ってるんだっ、違うって云ってるだろっ――」 「腰ガンガンに使われるわ、なかには出されるわ。しかも二回もっ。さすが高校生は元気だよね。途中から『もうお前寝とけよっ』って心んなかで先輩のチンコに突っこんじゃったよ」 「なっ……」  目を白黒させた恭介は、彼の話のどこを否定して、どこに突っ込めばいいのか、もはやわからず閉口する。 (やっぱり、こいつ怒ってるのか? それで俺を責めてる? それとも天然なのか? どっちなんだ?)  まるで宇宙人との会話だ。恭介には奈緒紀の考えていることがさっぱり理解できなかった。  身繕いを終えた奈緒紀は衣服についた芝を払い落すと、ヘルメットを掴んで斜面を下りだす。一瞬恭介はもときた道路のほうへ向かう奈緒紀を追っていいのか、迷ってしまったが、しかしここから駅は遠い。バイクで帰るしかないのだ。それに彼はヘルメットを持っていった。ならば恭介に望みはある。  

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