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第27話

 万が一奈緒紀が自分といるのが嫌とだというのならば、そのときは鍵を渡して彼にバイクを使ってもらえばいい。自分は歩けばいいのだし、いくらか歩けばポートライナーだってある。  恭介が奈緒紀に遅れてバイクに戻ると、彼はバイクに凭れて立っていた。 「なぁ、奈緒紀。お前のこと犯っちゃった俺のこと、怒っているか?」 「怒っていないよ。いいよ。今回だけ許してあげる」  恭介はこんどはぐらかされないようにと、質問の仕方を変えてみた恭介は、懸命に彼を見つめながら問うたのだが、奈緒紀はいとも簡単にその答えを口にした。 「奈緒紀……」  苦しかった胸がいっぺんに軽くなったことで、恭介は彼の言葉が自分に威力をもつということと、そして自分が意外に単純であることを知る。  しかしこれであとからやっぱり嘘でしたなどと云われでもしたら、いちど上がったぶん恭介はもう立ち直れないかもしれない。 「ほんとに……許していいのか?」 「もともと怒っていないよ。でも晩御飯くらい奢ってね」  恭介が「わかった」と答えると、奈緒紀は「やったね」と嬉しそうに笑った。いつもの上目づかいでちょっと目を細める笑顔だ。恭介は彼のその笑いかたが好きだった。  ぎゅっと彼を抱きしめたくなったが、さすがに調子に乗りすぎてはいけないと我慢する。 (だめだ、俺、こいつのこと好きだ…‥)  自覚するととたんに、彼との距離に胸がどきどきしはじめる。このタイミングで奈緒紀をぎゅっとして、そして恋人同士のような甘いキスを交わしたいと、切実に思った。 「ほら、なにしてんの? はやく食べに行こうよ。エンジンかけて」 「わ、わかった」  シートをタンタンと叩いて奈緒紀が強請る。  じつは奈緒紀の我儘な云いかたや仕草も、恭介はけっこう気にいっていた。口もとが緩んでしまった自分のちょろさに、きまりが悪く恭介はさっとヘルメットを被って顔を隠す。 「あっ!」 「なんだ?」  慌てて振り返ると、首を捩じって自分の腰のあたりを見ていた奈緒紀が、「うわぁ」と眉を(ひそ)めた。 「先輩やっぱダメだ。先輩のん、ズボンまで沁みてきたわ。こんなんじゃ店にはいれねぇ」 「‥‥…」  恭介は顔を引き攣らせた。 「もう、帰ろ帰ろ」 「……わ、わかった」  奈緒紀は胸の横で片方の手のひらをうえに向け、「がっかりだ」と肩を竦める仕草をした。 「これ先輩の服だし、先輩の責任だからね。自分で洗ってよね?」 「…………わかった」 (こいつメンタルすげぇな)  フロントブレーキを握ってバイクに跨りながら、恭介は心のなかで彼を賞賛する。彼の度量には感服だ。自分の愚行や反発なんて、こいつのなかでは(かすみ)みたいなものなのかもしれない。  こいつにはもうなにも勝てそうにないと内心思いながら、恭介がペダルブレーキに足を掛けたとき、タンデムに乗りこんだ奈緒紀が、恭介の脇腹をトントンと叩いてきた。 「ねぇねぇ、先輩。今度さ、うちのチビたちと遊んであげて? このあいだ先輩が帰ったあと泣かれちゃってさ。かわいそうだったんだよ?」  小首を傾げて云うのがかわいくて、胸がきゅんとなる。 「そ、それは……」 (それだけは、無理かも……) 「先輩、あの日ほとんどチビたちのこと無視してたでしょ? クラスメイトやセンセ―なんか放っておいていいからさ、そのぶんうちのちびっ子かわいがってやってよ?」 「……俺、ちょっと、それだけは――」 「俺さぁ。ちょっと腰痛くってさ。なんでだろ? あとちょっとあらぬところが切れているみたい。なんかしばらく安静しなきゃいけないっぽいよ?」  ぐぅっと言葉に詰まった恭介は、がっくりと項垂れた。 「わかりました……」 「よろしくぅ!」  パシッと背中を叩かれたのを合図に、恭介はブルルルンとバイクのエンジン音を響かせる。勢いよく車道に滑り出て走りだすと気分は爽快だった。  人工島の端は空き地や倉庫が多く、人っ子ひとりいないし車の一台も走っていない。  ふたりを乗せたバイクが走っていく車道は、明るく輝く月にいつまでも照らされていた。        *   試験期間最終日の金曜日の午後、恭介は少し時間ができたという奈緒紀といっしょにいちど自宅に帰った。   そしていま、奈緒紀は滅多に使われていない恭介の家の台所のガスコンロのまえに立ち、ぐつぐつ煮える鍋の中身を杓子でかき混ぜている。鍋の中身はカレーだ。  彼が刻んだ肉や野菜を炒めはじめた時点で食欲をそそる匂いがしていたが、そこにカレールーが投入されるとスパイシーな香りで唾液まで湧いてきた。 「奈緒紀」  奈緒紀の背中にぴったりとくっつき、華奢な肩に額を擦りつけると、()れるTシャツからやさしい柔軟剤の香りがする。 (恋人と家で過ごすのっていいなぁ。なんか幸せを感じる)    ぺろっと奈緒紀の首のつけ根を舐めてからそこにちゅっとキスをすると、彼に杓子を持っていないほうで、後ろ手にゴンと頭を叩かれ、恭介は「いてっ」と叫ぶ。 「せんぱいいぃぃ。火ぃ使っているときは危ないってわからない?」  そう云うと奈緒紀は恭介の腕のなかから、するっと抜けだした。ちびは身が軽くて素早い。「先輩、焦げないように、そのままそれ混ぜといて」 と、恭介に杓子を持たせると、さっさとシンクに溜まった食器を洗いだす。  恭介は云われたとおり鍋をかき混ぜながら、洗い物をする彼を眺めていた。  奈緒紀は手際よく洗い終えた包丁やまな板を、もとあった場所に片付けている。やたらと手際がいい。

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