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第29話

 奈緒紀の家ではたいてい弟の智が食事をつくるそうだ。智はまだ中学三年生なのに、彼の見せる玄人はだしの包丁さばきや中華鍋の扱いに、恭介は目を瞠らされた。  奈緒紀の家では恭介とかわらない年齢の彼らが、当たりまえのように洗濯も掃除もこなしている。  恭介はそれを目の当たりにしたとき、なんで自分はそれらをしたことがないのだろうと首を捻ったのだ。  そしてよくよく考えると、恭介は母に頼まれたことも無ければ、やりかたを教えられてもいないことに気がついた。  それに恭介自身もいちども自分からやろうと思ったり、教えてもらおうともしていなかったのだ。  あの日、恭介は自分が『云われないとなにをすればいいのかわからない』そんなだめな人種だったんだと気づいて、愕然とした。自分はまるで子どもだったのだと。  身長や手足が伸びて、幼かった頃に届かなかったものに手が届くようになったことで、自分が大人になったのだと勘違いしていたのだ。  身体の成長と精神の成長は、また別のものだとわかっていなかった。  そう思いはじめると、自分が(すで)に大人だったとはき違えていたことがたまらなく恥ずかしくて、それは奈緒紀に弱いところを知られたときよりも、恭介のプライドを打ちのめした。  大人になりきれていない両親を心のなかでいつも(なじ)っていた自分を、いまはなんておこがましかったのだと反省している。いまのままでは自分も彼らと同じ轍を踏むのだとやっと気づけたのだ。  やたらと両親に反発したのは、彼らに自分の姿を投影していたからなのかもしれない。そう省みた恭介は、いつまでも自分の責任を親に押しつけるのをやめようと決意した。  まずは自分の責任は自分で果たそう。それに自分が変われば、あの両親たちにもなにか変化があるのかもしれない。  それにたとえ彼らがなにも変わらなかったとしても、確実に自分の将来は改善されていくのだ。  恭介は奈緒紀の家から帰った日から、受験勉強の合間に自分にできることをするようになっていた。気がついたらリビングに掃除機をかけ、物干し竿から乾いた衣類を取りこむくらい程度のことだが、案外気分転換になっていいものだった。  今も目のまえで奈緒紀がカレーを作るのを見ていたので、恭介はさっそく近いうちに真似して作ってみるつもりでいる。  それにしてもだ。恭介はこの一つ年下の親切な恋人にひとつだけ不満があった。ちなみに彼にはまだ「好きだ」とも「つきあってほしい」とも伝えていないので、恭介が勝手に彼を恋人として扱っているだけなのだが――。 「なぁ、奈緒紀。なんでエプロンしないの?」 「はい?」  カレーも出来上がりキッチンもきれいに片付けた奈緒紀は、「終わった終わった」と云いいながら、きれいに洗った手をタオルで拭いている。たしかに今更だったかもしれないが、だ。 「キッチンってふつうエプロン着けるもんだろ? 智くんだってしてたたじゃないか」  せっかく恋人が自分の家のキッチンにいるのだから、だったらやはりそれっぽくしてほしい。それっぽくとは、つまりアレっぽくだ。  ――裸エプロン。  世の男性にはその奇異な姿に驚くものもいれば、ドン引くものもいるだろう。しかし多くの男は狂喜乱舞するのではないか? そして恭介は後者だった。そのへんにはまったくのプライドもなく、拝み倒してでも恋人にその姿を求めたい。  この少女めいた顔の奈緒紀になら、ぜったいにエプロンは似合うはずだ。おそらくそのへんの女がするよりも、彼のほうが可愛く色っぽく着こなせると恭介は確信していた。  きっとこのキッチンのどこかに使われていない母のエプロンがあるはずだ。 「そんなの持って来なかったし、いちいちそんな……、先輩、あんた、なにゴソゴソはじめてんの? 出かけるんじゃないの?」  目星をつけたキッチンボードの引き出しを、ひとつづつ開けはじめた恭介に奈緒紀が寄ってくる。 「いや、どっかにエプロンないかと……」 「いや、もう出かけようよ。 またこんどんときでいいでしょ? 俺、家にあるやつ持って来るよ?」 「あ、あった! おぉ、いっぱいあるぞ!?」 「うん。いっぱいあるね。で、いっぱいあるのに、先輩はなんでそのフリフリを握りしめてるのかな?」  ボク、先輩の考えていることちょっとワカンナイ、と奈緒紀は片方の目尻をぴくぴくさせて、後退(あとじさ)っていった。 「なぁ、コレ着てみろよ?」 「いやいやいや。先輩、はやく出かけよ? 俺もう腹減ったよ? なんか外でおいしいもの食べるんでしょ?」 「ちょっとだけでいいから、()けてみろって」 「だから、こんどだって」 「なんでだよ、いいだろ? すぐだから」 「ひぃっ」  首をぶんぶんと横に振りながら、後ろへ後ろへと下がっていった奈緒紀が、壁にぶつかってとまった。もう彼に逃げ場はない。

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