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第2話
結局、煙草のことが表沙汰になることはなかった。白崎が見ないふりをすると決めたのかもしれない。報復に自分の校内での喫煙をばらされることを恐れてかもしれないが。
一日、二日は何となくいつその話を持ち出されるかヒヤヒヤしていたが、週明けには「ああ、その気はないのか」と、安心するはずが、残念のような気持ちになった。反省文を書きたかったわけではないが、書くようなことになればあの白崎の目を間近で見られた気がした。
もう一度、あの距離で吐息の音を聞いて、曇ったレンズの奥の目を見て、自分の中にある感情を確かめたかった。
「仁志さん、肘」
「すみません」
食事中、母親の上久保舞(かみくぼまい)に指摘され姿勢を正した。
広いテーブルに家政婦が用意した朝食。血の繋がりのない父親の隆一(りゅういち)は仕事で、もう五日は家に帰っていない。
舞は茶道の師範代をしている。四十四歳。同級生の母親の中で年齢はいっている方だ。それでも、見た目には三十半ばほどに見える。
「五時に家庭教師の麗香さんがいらっしゃるから、遅れないで帰ってきてくださいね」
「……はい」
「麗香さんのような聡明な方が直々に教えにきてくださるのだから、失礼のないようにするのですよ。それと、もう少し愛想もよくして。せっかく私に似た顔をしているのだから」
三科麗香(れいか)は大学生で、半年前から一週間に二回、家庭教師として上久保家を訪れている。絵に描いたように容姿端麗、和風慶雲とした人となり。育ちや家柄もよく「恋人にするなら麗香さんみたいな方がいいと思うわ」としつこく、何度もいうくらいには気難しい母も彼女を気に入っていた。
麗香も、その気配を察知しているのか、ふとした時に目が合うと意味ありげに微笑んで、肩を寄せてくる。
気持ちが悪い。
これは、麗香が悪いわけではない。いつからか、女の方からそういう下心を感じると、ぞわぞわ胸が悪くなった。罪悪感にも似たその正体が何なのか。知らないふりをしてきただけで、本当はすでにわかっている。
担任の白崎への感情も同じだ。呼び出しを食らわずにすんだのに、落胆している自分がいる。
誰もいない教室に呼び出されて、反省文を書かされる。監視するようにそばにいる白崎からは煙草の匂いがする。その匂いのせいで座りが悪くなって、足を組みかえると、白崎が「どうした」と聞いてくる。あの冷たい声。蛇みたいな目。制服のスラックスを持ち上げる興奮を見られ、もう一度どうしたのか問われる。黙っていると、罰だと言って立たされ、定規で背や尻を叩かれる。
その淡々とした態度や声から、容赦なくいたぶられるだろう自分を想像して、もう何度も自慰をしていた。
これは恋だ。排泄された汚い匂いの白濁をティッシュで拭いながら、漠然と思った。巷に溢れているそれは、もっとプラトニックな美しいものに見えたのに、いざ自分が手にしたら、なんとも生臭さの拭えない野暮なものに感じてならない。
相手が男だから、尚更この気持ちの消化に困って、あり得ない妄想で抜く。いくらなんでも、叩くなんてしないだろう。
数学教師の癖にジャージ姿。たまにスーツでいる。妄想の中の白崎はスーツだった。
「なあ、見て見て」
いつも仁志の周りに屯するうちの一人が数学の確認テストを引っ提げてきた。A4サイズのテスト用紙。名前のわきに八十九の赤い文字。
「お、珍しい。カンニングか?」
すでに屯していた一人が茶化した。
「バカ。違うっつの」
テスト用紙を見せてきたやつが得意気に「特訓の成果だ」と胸を張った。
「シロ先に見てもらったんだよ、さすがにこのままだと進級に響く可能性があるって脅されて」
「進級? まだ六月だぞ」
「バカの芽は早いうちに摘み取っておいた方がいいって思ったんじゃねえ?」
また一人集まってきた。
他人の成績の話なんてどうでもいいが、シロ先こと、白崎に勉強を見てもらったという話が気になった。
「それな。まあ、我ながら酷い数学の出来だったんだけどな、何かシロ先に教えもらったらいい感じにわかるわけよ」
「説明がすでにアホっぽい」
「シロ先の苦労が偲ばれるな」
「失礼な奴らだな! ほら、仁志はちゃんと俺のことほめてくれるし」
急に話をふられたが、話を合わせてやる。九十点にもならないお粗末な点数で喜んでいる学友の頭を撫でてやった。
「ほらー。めちゃほめてくれる」
「仁志は誰にでもそうだし」
「ナチュラルに男女関係ないところがモテに繋がってんだよな。俺なんか頭ポンポンなんて彼女にもしたことねえよ」
「仁志はいいけど、お前の手汚そうだし、そのままの方がよくね?」
「どういう意味だよ。汚くねえし」
むきになって話している輪から抜ける。立ち上がると「便所?」と聞かれた。
「いや、職員室。用事あるの忘れてたから」
そう言うと誰もついてこなかった。正直に便所に行くといえば金魚の糞よろしくぞろぞろと付いてきただろう。
教室を出てあまり利用者がいない上の特別教室の階の便所を使う。
うっすらと清潔感のない悪臭が漂う男子便所の奥の個室に入る。細い窓を開けてからポケットに手を入れ、革のシガレットケースを出した。引き抜いた煙草にオイルライターで火をつける。
こんなものの何がいいのか吸ってもわからない。ただ、えぐさを感じながら、休み時間、屯してくる連中から逃げる暇潰しにしている。あのままずるずると一緒にいれば、自称オッサン系の女子も釣れしまうので余計に面倒くさい。結局は男子に構ってほしいだけの女だ。それに吸っている間は何となく気分がよかった。
煙草を買い始めた原因はこのシガレットケースだ。中学校の頃の家庭教師の忘れ物。体罰が酷い先生で、問題を間違えると尻や背を打たれ、酷い時には煙草の火を押し当てられた。
しばらく黙っていたが、打ち身に気づいた母が慌てて解雇した。
叩かれずにすむ、と。最初はその先生が辞めてすっかり安心していた。しかし、じくじくと体を苛んでいた火傷や青痣が消える頃には、なんだか物足りなさを感じるようになった。
そうというのも、打たれて火照った体をもてあましていた仁志は、性器を弄って痛みを紛らすことを無意識に習慣にしていた。自慰の気持ちよさで痛みを上書きしていたわけだが、それを急に取り上げられ、何となく物足りなくなってしまったのだ。
そこで登場するのがあの、シガレットケース。あいつの忘れ物だと母には何となくいえずに、ベッドに隠していた代物だ。物足りなさを感じていた夜、存在を思い出して取り出し、中身を見て、煙草の匂いを嗅いだ。
まんまと罰の記憶がよみがえり、体が疼いた。その時にはもう、痛みも快感も、同じところでとぐろを巻いて膿んでいたのだから、仕方がない。
最初のきっかけはそんなものだ。それから何となく持ち歩くようになり、気まぐれに火をつけてみたのは、麗香が家庭教師になってすぐ。
それから、ずるずると吸う頻度が高くなり、セキュリティの甘い店員がいるコンビニで新しく購入もした。今では自慰の興奮材料としての匂い云々より、ニコチンでストレスを発散している気がする。
友だちと向こうは思っているかもしれないが、そばにきて騒ぐだけのやつらを友だちとは思えないし、会話のレベルが低く、話していても楽しくはない。
それでも女といるよりはましだった。
一本吸い終える頃、誰か入ってきた。
「ん? お、何か煙臭くね?」
生徒だろう。
「煙ってか煙草じゃん」
「んなわけ……」
そこで黙る。奥の個室が使われていることに気づいたらしい。
仁志は火を消して、吸い殻を外に捨てた。外は真下が狭い裏庭になっていて、堀を挟んで向こうがひと気のない裏通りになっている。話をしていたどちらかが便所を出ていく音がした。
ライターとシガレットケースをしまい、窓を閉める。個室から出ると、誰かは知らないが三年のネクタイをつけた坊主頭がそこにいた。
「お前、今煙草吸ってただろ」
腕を組み、仁王立ち。背が高いし、迫力がある。何となく野球部らしい雰囲気を感じる。
仁志は財布を出した。
「おい、聞いてるのか!」
「熱血お疲れ」
財布から二万円出して胸ポケットに突っ込む。
「は……? 何のつもりだ」
「何って口止め料だろ。うまく誤魔化せたらもう二万やるよ」
服を叩いて煙の匂いを飛ばす。
「ふざけるな」
坊主頭がそういうが、ポケットに差し込まれた二万から目が離せないでいる。
たった二万で口をつぐんでくれるなら安いものだ。
堂々と男子便所を出て教室に戻った。
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