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第8話 好きなこと
「なんか描いてみる?」
武市があまりに絵を眺めているからか、そう吉野が言った
。
「いや、無理、下手だもん」
「そう? いつでも描きたかったらいえよ」
アイスの棒を捨てた吉野は、筆に指を持ち替えていつもの定位置に座る。
「この絵ってさ売るの?」
「売れたらいいけどね。たまにコンテストに出すのもあるけど、だいたいは画廊で個展して、売れたら万々歳だな。売れないやつは捨てるのも結構ある」
「もったいない」
「場所をとるから、全部とっとくのは難しいかな。気に入ったのは残してるけど、だから今見てるのレアものだぞ。そのうち個展もあるから、連も見に来な」
捨てるものも多いのにそれでも描くって言う気持ちはなんなんだろうか。
「吉野さんは昔から絵が好きだったの? いつから絵描いてるの?」
「真剣に書き出したのは高校からかな? ちっさい頃はスポーツしてた」
「意外」
「うち上に三人兄貴居るんだけどみんな野球少年でね。俺もあこがれたんだけど、才能が全然ないの」
「力強そうなのに」
「な。背高いし、筋肉質なのはいいんだけど、足遅いしノーコンでさ。全然だめで、だからと言って勉強もできないし。何もできないって、家族から興味それて。ある意味でぐれたんだろうな。だれも俺に興味ないなら絵でも描こうかなみたいな」
「それで、ずっと絵?」
「まぁね、どっかではまったんだろうな。反対押し切って美大はいって、就職もしないで、道、踏み外してるけど。まぁ、楽しいよ」
楽しいよの吉野の声はこころから言ったようで、吉野は顔をほころばせた。好きで絵を描いて、そのまましたいことをして、自分とはまるで違う。武市は今の自分にはなにもなく、いつも思考はまとまらず解けていって立ち尽くしてるだけで。吉野はなにも悪くないのに武市の心臓をちくりと刺した。
「吉野さんって収入どれぐらい?」
「それきく? 絶対多くないじゃん。俺」
「就職どうしようかと思って参考に」
わかっている。このアパートはずいぶん築古で、とっても安い。好き好んで住んだりしないだろう。なのに、楽しそうな高校生時代から今の吉野に嫉妬して、嫌な気持ちが出てしまった。慌てて自分を正当化するような言葉がでて、自分のずるさが嫌になる。だけど、吉野は、あぁ、と小さく相槌をうってから、絵に向かってた姿勢を吉野に向きなおした。
「うーん。まぁ、大学生の初任給と、同じか毛がはえたぐらい。年の割には少ないよ。まぁ、でも、そんなに働いてないから。おれはフリーターみたいでも、好きで生きてきた道だから納得してるけどさ。全然安定してないし、世間様の目もあるし、安易にはすすめない。ちゃんと就職してお金は定期でもらえた方がいいと思う」
吉野はいつもの柔らかい印象も消えてちゃんとした大人になっている。
紳士に答えてくれた吉野に、嫉妬してつい口を滑らせたことを武市は後悔した。
「就職困ってるの?」
吉野は優しく語りかけてくれるけど、武市は自己嫌悪と実際に困ってる現状とを吉野には言いたくなくて口を開くことが出来ない。
「大丈夫、何とかなる。いま、フリーターいまいちって言ったけど、もしなってしまっても何とかなるよ。俺が何とかなってるんだから。好きなことがあれば、人生、他に何がなくても何とかなるよ。なにかない? 好きなこと」
うらやましい。この人が。好きなものって何だろう。いままでそんなものあったことがない。
「なんでもいいんだよ。大丈夫、見つかる。好きなことがあれば、ことでも、ものでも、人でもいい。心配しなくても生きていけるから」
吉野が武市の髪を力強く混ぜ返した。
「俺は、好きなものって、たぶん絵にあうまでなかった。あんまり人付き合いもうまくなかったし。偏屈だから、誰かがいいってものに、いいって言うのも出来なかった。そんな俺でも好きなものは見つかったから。見つかるよ」
吉野はそのあともしばらく武市の頭を撫でていた。
日が変わる直前に武市はきまずいながらも吉野の家を出た。
吉野の手の体温が頭に残ってる。
好きなことってなんだろう。今までそんなこと考えもしなかった。嫌なものをどう回避するかって考えながら生きてきた。
――好きなことでも、ものでも、人でもいい。
吉野の言った言葉を思い返す。自分は何をしても不器用でうまくできなくて、飽あきてはやめて、最終的には何にたいしても興味を持てなくなった。
自分の家に帰る。玄関のカギを閉めた。母親は見当たらない。もう奥の部屋で眠っているんだろう。
リビングの明かりは灯ってる。これは別に武市が帰ってくるのを見越してついてるんじゃない。中学のあの事があってから、家の鍵を母親が没収し、帰れなくなって、警察に補導されたことがある。
そこから母親がちゃんと家に帰ってくるようにと、自分が家に帰っているときキッチンの明かりをつけるようになった。まるで、それだけで、母親の責務を果たしているというように。
両親はとうの昔に離婚した。理由はよく知らないが、喧嘩ばかりで泥沼だったことは覚えている。今現在、母親とはしばらく口をきいていないし、嫌われている。友人もろくにいないし、バイトでは煙たがられて、人付き合いがどうしても苦手なのだ。自分は人に対して好意を持てないし、持たれない人間だと思う。
なにも好きになれる気がしない。
吉野さんがうらやましい。あんなにも光ってる。その生き方は武市には到底できそうもない。
好きってなんだ。これから自分はどう生きればいいのか。
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