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      第28話

 翌日。出社した葉琉を迎えたのは、いつもと変わらない秘書室の面々だった。  優しい笑顔で始業前から仕事を始めている河本室長。仕事前の紅茶タイムを優雅に楽しんでいる加賀女史と瑠璃川女史。出張中の香月女史の分まで日本での仕事を熟す為、いつもより少し眉間の皺が多い近衛秘書。  そんな優しい日常に、葉琉は心底感謝していた。 「河本室長。来週からですが、少し気分転換に北海道に行ってきます」  思い切ってストレートに、悪く言うなら生意気に清々しい顔で言って放つ。  しかし、河本はそんな葉琉に笑みを深め、ただ一言。 「じゃあ秘書課メンバーへのお土産を楽しみにしてるよ」 「あ、神代君。私ハスカップのジュースが欲しいの。よろしくね」  出社してきた姫野女史が葉琉の肩を軽く叩きながらウインクする。それを聞いた加賀女史と瑠璃川女史は「ハスカップって果物でしょ?」「そうそう。ブルーベリーみたいな酸っぱいやつ」と少し会話したあと、「私たちの分もそれにして~」と笑顔で言ってきた。 「分かりました。じゃあ女性陣にはそのジュース買ってきますね。河本室長はマリモにしますか?」  デスクに観葉植物が多い河本室長。観葉植物が好きだとどこかで聞いた葉琉は、そう提案する。案の定、河本は笑顔のまま「一番嬉しいね。親子でよろしく」との事だった。 「…神代、俺は彗星55でよろしくな」 「純米吟醸ですか?」 「ああ」  眉間の皺は健在で近衛秘書のお土産が決まった。  そんな先輩たちの気遣いに、葉琉はこれから会う、今一番会いたくない愛しい相手に対峙するため、心を決める。  が、そんな必要がなくなるのは数分後だった。 「え、デュッセルドルフ支社にですか?」 「ああ。今期で一番大きい入札がかなり厳しい状況という事で、急遽社長が行くことになったそうだ。電話が来たのが社長が自宅を出る瞬間だったらしく、フライトの時間もありもう空港に向かっているそうだ」  急に決まる出張。それはいつもの事だが、第一秘書である葉琉に連絡がなく河本へ来ているこの状況に思わず疑問が尽きない。 「自分も向かったほうがいいでしょうか」 「本来はそうだけど、デュッセルドルフ支社には“あの”第三秘書がいるだろう。彼がいるから神代君はこっちに残っておくようにとのことだよ」  デュッセルドルフ支社の第三秘書は会長である龍玄氏の元第二秘書だった男である。とても有能で、紫桜に最初に付けた秘書でもある。また本人はBクラスのDomだが、いつも龍玄氏といたせいかDomのglareに対する抵抗がかなり強くなり、また紫桜の元教育係もあった彼は、紫桜に対して畏怖する事がない数少ない人物でもあった。  そんな葉琉からしても大先輩でとても頼れる第三秘書が今回は一緒にいるのだ。関係がギクシャクしている自分がわざわざ隣にいる必要はないのだろう。と投げやりに考えていた。 「と、いうことで、少し早いけど今日から休暇でいいよ。君のノートPCのセキュリティレベルならどこで仕事をしても大丈夫だろうしね。ただ、くれぐれも取扱いには気を付けてくれよ」 「はい。ありがとうございます」  始業3分にして、早くも帰宅が終わってしまった葉琉。これだけ見るとクビということなのでは?と思わなくもないが、NIIGは、やることが終わればあとは帰宅しようが何しようが自由という、完全実力主義が売りの会社である。よって、営業部や開発部、企画部、事業部など、すべての部署において午前中で帰ってしまう社員がいる。それもあって、毎年の就職競争率が圧倒的に高かったりした。  それはさておき、もうすぐクリスマスを迎えようかというこの時期は、何かと街が騒がしい。それは平日の朝でも変わらず、クリスマスの装飾やポスターの張替え、イベントの準備など、どこかしらに非日常が存在していた。  そんな街を歩きつつ、読みかけだった小説を読もうかと考えた葉琉は、ふと自分が泣きそうになっていることに気づいた。泣きそうというより、心臓が握りつぶされそうな感じというほうが正しかった。 「クソ…」  その感情を今誰かに抱いている自分が何よりも憎い。もう誰にも自分の内側には入れないと決めたはずなのに。それさえも守れない自分が本当に嫌いで仕方がなかった。  そんな考えに至った瞬間から、一気に沼に引きずられていく。どこまでも深く、どこまでも残酷で悲しい沼は、明るく未来を楽しもうとしている街とは正反対もいいところだ。表に出す感情の制御は誰よりも得意な葉琉。実の父や厳格な祖父までもが葉琉がDomであれば最高の当主になると、一度は思った事がある程に上に立つ者としての才能があった。無償の愛をくれる父や祖父だが、そう思われたことがあることは分かっている。しかし、家族に何も言わせないのが天才と言われたSubの唯一の欠点だった。  気づけば自宅マンションの寝室。照明も付けぬままワイシャツのままドサッとベッドに倒れこむ。サイドテーブルには水の入ったコップと、空になった錠剤のシートが大量に置かれている。  誰も寄せ付けないとばかりに紺のカーテンは完全に閉められ、かろうじて入り込む一筋の光を嫌うように葉琉は眉間に深い皺を寄せ目を閉じた。全てを拒むように、そのままクスリの副作用で眠りについた。

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